『Journey through the Text of ACIM』(23)-3章 キリスト教(後半)

2020-02-17

(前半からの続き)

ACIMがキリスト教用語を用いているわけ

ACIMがキリスト教の用語を用いている目的のひとつとしてワプニック先生は、ACIMの中でイエス自身が「これは二千年もの間、私の名のもとに差し出されてきた思考システムですが、間違っています。」と訂正するためだとされる。また聖書では一見イエスの教えが祭られているように見えるからとも。

そして次のようにおっしゃっている。

「コースとは、西洋世界で最も偉大な愛の象徴を取り上げ、その人の名において為された誤りを正そうとする試みなのです。」

さらに、その最優先訂正箇所として、①罪を現実のものとしたこと、②自我に似せた神のイメージを作ったこと、③罪を犠牲と罰によって贖うと考える点を挙げられている。

犠牲と無垢性

実際イエスは、最初の節で「犠牲とはまったく神の知らざる考えである。それは恐れのみから生じるものであり、恐れる者たちは凶暴になり得る。(以下略)」(T-3.Ⅰ.4:1-2)と述べている。

犠牲という概念の真の目的は、自我が罪は私たちの心の中ではなく罰する必要がある世の悪にあると思わせ分離を現実化し、それによって自我の思考システムを温存させるためのものだ。

イエスは、「攻撃は恐怖の表れである」と教え、宗教がイエスの名のもとに犯している凶行を赦すように暗に求めている。

またテキストの先の方には「私が無駄に死んだと教えてはならない。そうではなく、私があなたの中に生きていると示すことによって、私は死んでいないと教えなさい。」(T-11.Ⅵ.7:3-4)とあり、私たちはイエスのメッセージを生きることを期待されている。

無垢性には何も犠牲にすることができない。それは無垢なる心は一切を有しており、その全一性を保護することだけに励むからである。(以下略)」(T-3.Ⅰ.6:1-2)

キリストの無垢性において神の子は神が創造したまま欠けるところなく、完全なる全一性と一体性だけがある。

贖罪はこの真実を優しく思い出させてくれる。

この節が目的としているのは、これまで盲目的に受け入れてきた「真実」に目を向けさせ疑問視させ気づきを促すことだ。

キリスト教の致命的な誤りとACIMにおけるイエスの目的

キリスト教の致命的な誤りは、無垢なる神の子の普遍性を認めそこなったことだけでなく、罪のように見えるもの実は罪悪感として心の中だけにあるものだと見抜けなかったことだという。

神の子の無垢性はまったく傷ついておらず、ただ選択のやり直しだけを待っている。

ACIMというプロジェクトにおけるイエスの目的は、この贖罪という真理を私たちに指し示すことと、私たちを真理が保たれている心へと導くことだという。

神は懲罰など信じていない。神の心がそのように創造することはない。神はあなたの『邪悪な』行為を理由にあなたを責めたりはしない。ましてや神があなたの『邪悪な』行為を理由に私を責めるだろうか。

このような前提がいかにまったく不可能であるか、それがいかに全面的に投影から生じているかを、必ずしっかりと認識するようにしなさい。(後略)」(T-3.Ⅰ.3:4-8)

イエスが反語で表現している箇所は確かに異常な考えではあるが、二千年以上ほとんどそうだとは気づかれていない。

それは、ユダヤ教とキリスト教という西洋の二大宗教の礎となってきたからというだけではなく、神から離れてしまった自分はひどく罪深いという思いと自分自身が一つになっているからだと、説明されている。

この節を読み終えて(ちょこっと感想)

キリスト教についての知識が不十分なためややモヤっとしているところがあった。知っていたら、もっと腑に落ちるのだろうと思う。

自我の思考システムによって作られた宗教の中に自我に似せた神が組み込まれ権威づけされ、自我の洗脳がより強固になっている状況が見えてきた。こうやってテキストの解説を読むと、やっぱりACIMの考えはやっぱり真実だと思う。

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