2019-09-16
過去=自分、と思って執着したい私
結局のところ、この主題概念が身についていないから、私はなかなか前進できないんだな~と思う。
兄弟の過去だけじゃなくて、起こったことすべてを忘れてしまいたくない。
過去は自分の軌跡だし、自分そのもののようにも思えるから取っておきたい。とくに「若かった自分」の痕跡は残しておきたい。もっと言えば、幼いころ寂しかったな、もっと甘えたかったなぁ、と今さらながら幼少時代への固着さえある。
つまり私は線形的な時間の中で生きていて、それを手放したくないと思っているのだ。
「彼の罪は私の罪とともに過去にあり、過去は過ぎ去っているので私は救われています。私が過去を自分の胸の中で大切にすることがありませんように。」(W-pⅡ.288.1:5-6)
「私が過去を自分の中で大切にすることがありませんように」というより、めちゃめちゃ過去に執着しているなぁ。生きた軌跡=自分とさえ思っているかも。
これはエゴの手のひらの中で転がっているようなものなんだろうか。
次回のチャンスは覚えていられますように!
私にとって、この世はやっぱりリアルだ。
実は起こっていないのだと、見抜くことがなかなかできない。
せめて、最も重要なこのことは覚えていよう。
「兄弟は私の救済者です。あなたが与えてくださった救済者を、私が攻撃することがありませんように。」(W-pⅡ.288.1:7-8)
自分がざわつくときは、自分が勘違いで背負いこんだ罪悪感と恐怖感を軽くできるラッキーチャンスで、すごいガタガタするときは、大きな地雷が埋まっていて一回で何倍も軽くできるスーパーラッキーチャンスが来ているのだ。
せっかくのチャンス、たいがい“正気”を失っていて、ものにできない。逃すだけならまだしも、しばしば“大失敗”して、さらに罪悪感や恐怖感を背負いこんだ夢を見ちゃう。
ACIM本を落ちついて読んでいるときには、「次回のチャンス到来のときはちゃんと覚えてるぞ」と誓っているんだけど、気づいたら嫌な気持ちに巻き込まれて“攻撃”したい気満々になっている。そうだったと気づくのは、感情の波が過ぎてからだ。
はあ。。。
最近はさらに巧妙になって、自分の地雷が埋まってそうな近くには近づかない。
まあ、こっちが近づこうと思ってなくても別のかたちでちゃんとやってくるんだけど。
はあ。。。
こんな調子じゃあ、せっかくACIMと出会えたのに、無意識にある罪悪感と恐怖感はいっこうに減らせないや。
せっかく世の中のしくみを知ったというのに…。
はあ。。。
「だから今日、私を赦してほしい。兄弟を聖性の光の中に見るとき、あなたは自分が私を赦したと知るだろう。彼が私よりも神聖でないということはありえず、あなたが彼よりも神聖だということもありえない。」(W-pⅡ.288:1-3)