2019-08-16
「あなたが存在する一切を創造されたのなら、私の真のアイデンティティーが神の子でないということがあるでしょうか。」(W-pⅡ.283.1:8)
「今や私たちは、共有されたアイデンティティーの中でひとつである。
父なる神を私たちの唯一の源とし、創造されたすべてを私たちの一部とする。
だから私たちは、存在するすべてのものを祝福し、赦しが私たちと一体にした全世界と、喜んでひとつに結ばれる。」(W-pⅡ.283.2:1-2)
レッスン283の主題概念は、わりとストレートに入ってきた。
抵抗感はなく、むしろ安堵を感じた。
「アイデンティティー」という言葉は、若い頃よく聞いたし使った。
それを探していたような?
私のアイデンティティーっていったい―?
「私のアイデンティティー」といった場合、意味ははっきりとは理解していないけれど、
自分が自分であるゆえん、みたいなものだったり、
自分はなぜ自分なのか、だったり、
私が私であることの証明や社会での立脚点、
みたいなことをイメージしていたような気がする。
私は長いこと社会のなかで「何者か」にならなきゃいけない、誰かに見せて「証明」できる何かが欲しいと思っていた。
けど、
真のアイデンティティーが神の中にある、という文言に触れて、やはりそうだなぁ、と肩の力が抜けて楽になった。言葉を換えれば、頑張れなくなった。
社会からの都合のいい逃避なのかな?
社会の中で何者であろうとなかろうと、私は私である。神の子としてありのままで幸せでよい。
アイデンティティーを神に置くことを意識してから、本来の怠け者度、甘さ度が増した。頑張って誰かに認めてもらわきゃいけない、って気が失せてしまったからかな。
真のアイデンティティーは、個のアイデンティティーを手放したところにあるんじゃないかな。
個のアイデンティティーというものは、エゴのメッキのようなものかもしれない。この社会では有用でも真のアイデンティティーとは異なる。
私が私であるゆえんを求めようとしても、個としての私は実は存在しない。個としてのアイデンティティーに執着せず、それより大きなもの、すなわち「私たちは、共有されたアイデンティティーのなかでひとつである。」に身をゆだねる。
これが本来の姿かな。
そんなこといつできるか、わからないけど。
そしてまだ「この私の身を焦がすような何か」をどこか求めているようなところがあるけど。