2019-07-04
「今や、私たちには、動揺のない静寂な一日を過ごせる準備ができているかもしれない。
もしそれがまだ実現できていないとしても、私たちは、どうすればそうした一日が達成できるかを学ぶことで満足し、それを喜びとする。」(W-pⅡ.273.1:1,2)
「もし動揺に屈したときは、どのようにしてそれを退け、平安へと戻れるかを学ぼう。
私たちはただ、確信をもって自分の心に、『神の平安の静けさは私のものである』と言えばよい。そうすれば、何ものも神ご自身が神の子に与えた平安を侵すことはできない。」(W-pⅡ.273.1:3,4)
動揺だらけだな。
最近とくに。
ワークをしていても、気が急いてしまって静まっていられないことが多い。
もう少しゆっくり静かにしていればいいのに。
それがなかなかできない。
なんとなく聖霊からのメッセージを受け取れたと感じてたことも、今から思えば「エゴの思いつき」だったかなと思えてくる。
全然静まることができていないし、聖霊のことばも受け取れてないのかも…
最近感じているのは、「すべてが与えられているにも関わらず、(私が)静まれないから受け取れてない。」ということ。
これは誰からのことばかな?
聖霊?
それともエゴ?
それともそれらが混ざった「私」の意識?
「確信をもって自分の心に、『神の平安の静けさは私のものである』と言えばよい。」
こうした具体的で短い指示ならば、できるはず。
目をつむって唱えてみたら、その言葉に纏わりついてくる不安や恐怖があった。
これはもちろん赦しの対象だ。
とどのつまり赦しに行きつく。
ひとつひとつ手放そう。