「母の形見」の指輪への執着

2016-02-04

 まだ小さな問題箇所はあるものの、一応お風呂の改修工事が終わった。今日から自宅のお風呂に入ることができる。

 とても小さなお風呂ではあるけど、やっぱり自宅でお風呂に入れるのはいい。真新しい薄ピンク色の湯船に、今夜浸かろう。

 今日は念を押して出かけたので、工事監督担当者はちゃんと家で待っていてくれた。ほっとした。(まあ、工事終了確認もあるし当たり前ともいえるが)

 昨日の私は、再び「鍵開けっぱなし無人状態」で部屋を後にされてしまうのではないかと不安で、母から形見としてもらったサファイアの指輪をしっかとバッグに忍ばせて美容室に出かけた。

 ふりかえれば、これは『奇跡講座』の基本的考えとは反した行動と言えるだろう。

 父母もまたこの世の幻影に過ぎないのだし(両親を言う前に、この体を持った私自身も幻影だ)、両親とその他の人への愛に区別があると感じていること自体、二元性の考え方だから。

 加えて、いずれは朽ちてしまう物質である「形見」を特別なものとしてリアルにしてしまうとは、まったく講座の意思に反しているのではないかと思い当った。

 あくまでも講座は心の姿勢であり、考えであり、この世の個別の事象にあてはめるものではないのかもしれない。

 心の姿勢が正すと、この世での感じ方はどうなり、行動はどう変わるのだろう。

 『神の使者』の177p(2010年発刊版)で、著者ゲイリーは

 「両親は懐かしいし、両親の思い出は大切だもの。それが幻想のなか以外には存在すらしないなんて考えると、変な気持になるよ。」と言っている。

 それに対してアサンティッド・マスターのパーサは、

 「わかるわ。両親や配偶者、子どもとの関係って、人間関係のいちばんの基本だもの。『コース』ではこの世界の人間関係を特別の関係と呼んでいます」と理解を示しながらも、

 「でも思い出して。J(イエス)は両親を―石工のヨゼフとセッフォリスのマリアを―愛していたけれど、ほかの人たちも同じように愛したのよ。」と答えている。

 両親だから大事というのは、聖霊の見方ではない。まして、いずれは朽ちるであろう「形見」に執着している私は、二重の意味で聖霊の見方から遠い。

 『奇跡講座』は世界で200万部以上も発行されながら、ポピュラーにならず「万人向けではない」と言われる。それは、私たちが「特別な関係やその関係性を表す「物質」への心理的執着を手放しがたく感じていることも大きいだろう。

 今の私にとって、母はやはり特別な存在だ。母には幸せでいてほしい。そして、その母がくれた指輪もやはり特別なものだ。

 せいぜい、母を思う気持ちのまま、いやそのひとかけらでも、周りの人にも親切することを覚えていよう。そして、少しずつでも「特別な関係」への心理的な執着を解いていこう、と思う。

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