2017-07-24
アートセラピー・ワークショップ
昨日は、カルチャー講座の仲間が主宰するアートセラピーのワークショップに参加させてもらった。
アートセラピーを受けたのは、久しぶりで、絵を描くのも、みんなとシェアするのも楽しかった。
ふと、いつ以来かな?と考えたら、一昨年、アートセラピーのセラピストのコースを受講しつつ、先生と相性が悪くて途中退校したとき以来だった。
セラピストと言いながら、人のトラウマや心のデリケートなところに無遠慮に入り込みコントロールするかのような先生の進め方に信頼が持てず続けられなかったのだ。先生もなぜか私に攻撃してくる。
当時は、すっかり感情的に巻き込まれてしまって、いかに先生と対峙するか、この場から自分を守るか、しか考えられなくなっていた。
今から思うと、あの“事件”はまさに自分のエゴの投影で、大きな赦しのチャンスだったと思う。
結局、赦せたのかどうか…私が止めて学校から離れてしまったから、それっきりだけれど。先生も、私から投影される役を引き受けてくださっていたのだから、今から思うと、ありがたい方なのだ。
今一度、この思い出した機会に赦そうと思う、当時の出来事と自分を。昨日のワークショップはその残滓の赦しのチャンスにもなった気がする。
レッスン130-二つの世界を一度に見ることはできない。
ここ何回かのワークでは、今見ている世界を手放して、その向こうに在る実相を見ることに力点が置かれている。
「神との分離」という起っていない勘ちがいを本気にして、「それは大変だ、こっちに逃げ隠れる場がある」とエゴの誘導によって行きついたこの世界。
そこには私たちが「世界」「人生」と呼ぶすべてのものがあるけれど、これは本当の世界ではない、自らの恐れと罪悪感が映画のように投影させて見ている世界にすぎない。
そこに「在る」と思っているから、見えるだけで、実在しない。
それを手放して実相世界に向かおう。これがここ最近のワークだと思う。
そして、レッスン130では「二つの世界を一度に見ることはできない。」
私たちはついこの幻想の世界を保ったまま、神の実相世界も手にしたいと思う。しかしそれはできないのだ。神の世界を見たいなら、この世のあり方をいったん脇において手放さなくてはならない。
「どのように重複することもない二つの世界が、両方とも一度に見えるということはありえない。(中略)実在か非実在か、それだけが選択できるすべてであり、それ以外に選択肢はない。」
「今日、私たちが学ぼうとしているのは、あなたが一度に二つの世界を見ることはできない、ということだけではない。今日のレッスンはさらに、あなたに見えている世界はその世界を見るあなたの考え方と一致するものである、ということも教えている。」
この概念のシフトの練習、5分を6回する。
ワークをして
ワークを始める際に唱える言葉の中に「この世にいかなる価値も見ずにいられますように」という件があって、そこに少し抵抗感を感じた。
この世の幻想のなかの様々なものに支えられ、幻想ではあるけれどその社会の中で生きてきたから、それが非実在と心から思えるには至っていない。
やはり私はまだまだ無意識の罪悪感と怖れをこの世に映し出して見ている。
もしかしたら、ものわかりよさげな顔をしたエゴが緩めにもった鎖につながれて、自分は自由にやれているつもりでも、エゴの手のひらの中で動いているだけなのかもしれないな。
簡単には悟れない。実相がありありと感じられるということは今のところない。
でも、ACIMのない人生に戻りたいとは全く思っていない。遠くてもリアルの道がいい。
…から、自分のペースでこの道を行こう。。と思う。2017年の夏も。
アファメーション
過去のことを思い出したら、それも赦しのチャンスだ。