レッスン109-私は神の内に休らう。

2017-05-14

帰省して母にiPad miniを渡す

母週末故郷に帰省した。母の顔を見に。そして“母の日”だからというじゃないけど、母用のiPad mini、中古品だけど買ったのでそれを渡しに。

私の母は81歳になるが好奇心旺盛で、何かわからないことがあると電子辞書でしょっちゅう調べている。だけど最近のことや固有名詞は電子辞書には載っていないことも多く、私がiphonで調べて教えると羨ましそうにしていた。それでかねてから母用にiPad miniを買ってはどうかな?と思っていたのだ。

Amazonで手配した無線LANルーターの到着を待って説明書を見ながら設定して、ネットで調べつつ、母用のApple IDを取得して関心持ちそうなアプリを入れて…、基本操作を説明していっしょに練習して…、と機械系が得意でない私にしてはなかなか頑張った。

iPad miniは私自身使いこなしているわけではないし、ふだんひとり暮らしの母が使いこなせるのかどうかわからないけど、母は興味津々。喜んでくれているみたい。今のところは、持ってきたよかった、と思う。

母に対する愛情と懐かしいような、切ないような気持ち、ACIMでいう「特別の愛」だな、と思うけど、なんともできないでいる。やはり特別の思い入れと執着がある。

ここ富山でもワークをしたいと思ってきたけど、母の日常にペースを合わせると、そこはACIMとは別世界で、30分に一度という復習Ⅲのワークはぐだぐだになってしまった。でも人との会話がたくさんの時間は、私が東京ひとり暮らしで黙々とACIMワークをしている時より、見方によっては健全な気もした。

「ACIMは万人向けではない」と言われるが、家族がいてそれなりに満たされていたら、関心が向かないのもわかる気がする。まして母と同じ目線に立って見る生活ではこの小さな町こそが世界だと感じる。

レッスン109-私は神の内に休らう。

レッスン109はゴールデンウィーク中の5月4日にやった。

私は神の内に休らう。

このきわめてシンプルな概念のもと心の内に、安息と静けさ、平安と静寂、安全と幸福を感じるよう努める。外界がどんなであろうと、求めれば静けさと平安がいつでも自分の心の内にあるということを、起きている間ずっと1時間のうち最初の5分、文字どおり「神の内に休らう」ことを通して、体験する。

このことが内なる真理を目覚めさせ、すべての人やものの中にある同じ真理を見ることへとつながる。

今日あなたが5分間休憩するたびに、世界は目覚めへと近づく。

そして「あなたは今日、神の平安の内に休らい、自らの安息の中から兄弟に呼びかけ、あなたとともに休らうようにと、彼らを彼ら自身の安息へと引き寄せる。」とも。

ワークをして

ゴールデンウィーク中はいつもはうるさく感じる前面道路の車の往来も比較的少なく、街の空気が緩んでいた。私は一日を通して何度目かになる『神の使者』の再読をしていた。そういう環境だったからか、このワークも心地よく感じられた。

夕方のワークの後感じたのは、なんだかんだ言っても、未だに私はエゴの視点が強いな、ということ。しょっちゅう、不安や問題、不満を感じている。

この世の中の一般的な見方とはまったく違うかもしれないけど、不満、不安、心配などが見えているという時点ですでにエゴの見方に陥っているということだ。こうした感情は、「神からの分離」(神の世界を自分から離れた)という最初の分離(という勘違い)に対する、恐怖と罪悪感の変形バージョンだ。

世界にはいろんな問題があり、連日ニュースでも取り上げられていて「解決すべきこと」も山積だけど、見えている問題は、最初の勘違い(原因)の結果として見えているに過ぎない。

こうした問題に関心を抱かずまったく内向きでいるのは世間的には「よくない」ことなのかもしれないけど、まずは自分の心のあり方のみ注視しようと思った。

具体的には、愛は不平不満をいっさい抱かない、を実践しようと。

いろんなことは「ある」ように見えるけれど、まずは「原因」である自分の心を安らかにするのだ。そのために「神の内に休らう」という今日の概念の実践は最強だと思った。

アファメーション

私は不平不満がいっさいない神の内に休らいでいる。

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