レッスン106-私が静まって、真理に耳を傾けられますように。

2017-05-03

世間は今日から5連休。晴れ。街の空気がゆったり感じられる。

このまとまった時間にやりたいと思っていたこともあるんだけど、手をつける気になれないでいる。昨日は『神の使者』の著者、ゲイリー・R・レナードさんの第三弾の本『愛は誰も忘れていない』を再読していた。

なんかゲイリーさんの本が私にとってのACIMテキストみたいになっている…。テキストより理解しやすいから。それでも、すぐ忘れるから、ゲイリーさんの本3冊は少しずつでも常にくりかえし回して読みたい。

それと同時に3冊目の本で勧められているように、テキストも1日数ページずつゆっくり浸透させたい。「ゆっくり」と思っていると、ついフェイドアウトして習慣にならないんだよなぁ。

レッスン106-私が静まって、真理に耳を傾けられますように。

レッスン106が言っているのは、一言でいうと「心の奥の内なる声に耳を傾けなさい」ということ。これを短い文章の中で何度もくりかえし言っている。

エゴの声に耳をかさず、「今日は静かにして、真理に耳を傾けなさい。

そうすれば、神は奇跡を携えて、あなたを訪れる。それが神の約束だ。

神はあなたを通して、真に見ることができなくなった者たちに呼びかける。

あなたは聖霊からあなたのはたらきについて学ぶ。

まず受け取ること。そうすれば与える者になれる。

「与えれば(その分)失う」というのは二元性の見方であり、正しくない。

実相では、受け取ることと与えることは一つであり、それはさらに増幅される。

受け取ることと与えることを学び、神の使者となること。そのためには静まって真理に耳を傾けること。

こんなようなことが書かれていた(気がする)。

ワークをして

ワークを始めにあたって、

私は静かにして、真理に耳を傾ける。

与え、受け取るというのは、何を意味しているのだろうか。

と自問自答する。そこで、私は受け取っても与えてもいないかもしれない、と思った。ただエゴの監視の下で、ひとりでワークをしているだけで。

与え、受け取ることは、とても流動的で先が読めないイメージがあるけれど、私はただ内向きにガードを固めているだけのようにも思う。その奥に潜んでいるのは“不安”かもしれない。

昔は、けっこう冒険やチャレンジ好きのところもあったはずだけど。

自分ではACIMを学んでいるつもりでも、その実、まったくACIMの存在を知らない人よりACIMから遠いところにいるのかもしれない、と思った。

私は、与えることも受け取ることも、苦手だ。

一つには人そのものが恐いから。人からは人当たりがいいと言われるけれど、それは生きる術としてそうしているだけで、気を許せていない。誰かといるときは常にキンチョー気味…。だから、疲れる。ひとりを楽に思う。そんな循環があるように思う(これこそが、ACIMで正すべき幻の原罪だ)。

そして、与えること、受け取ることについても、昔から「ただより恐いものはない」と言われてきたし、ACIMでいうように無自覚ながらエゴの取引的に捉えていたように思う。

また、社会的生き物である人間のコミュニケーション上の潤滑剤のようにも捉えていた、好意を示したり、防御したりするために。つまり与えること・受け取ることを主にツールとしていたように思う。そして、いただいた分はちゃんとお返ししなければいけない。その意味でマナーでもあった。

溢れるような愛からではなかったんだな…。いや、たまには心からあげたいと思ったこともあるし、愛もあったか。

実際に与えたり受け取ったりできるものは真に在るものだけだ。となると愛、平穏さ、静けさ、喜び…といった神の性質だけ…ということになるのかな。

与えることは、自分から減る、ことではない。

受け取ることは、相手から何かが減ってしまう、ことではない。

一元的な見方をすれば、与えることも受け取ることも同じで、分かち合いによって、ますます増幅していく。

なんか取りとめもなく書いてきたけど、今ここからの私のステップは、与えたり受け取ったり、人と分かち合う機会を多くしていくことなのかな、と。そこに行きついた。

「人がこわい」とはまったくACIM的ではない、と気づいた。ACIMを学んで実践しないのではまったく無意味なのだ。

アファメーション

あげよう、受け取ろう。ありがとう、うれしいよ。

(なんとか絞り出したアファメーションがこれだった(>_<))

 

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