初秋

2021-09-04

やれやれ…

一時的なのかもしれないけれど9月に入りすっかり涼しくなった。暑さにバテていた私にはありがたい涼しさだ。

最後にブログを書いてからすでに10日経った…早いなぁ。

先月『Journey through the Text of A Course in Miraclrs』のブログ上でのまとめを止めることにしてから、この本を読むこと自体が止まってしまっている。

…気が抜けたということもある。

元々はワークショップで出会った貴重な勉強仲間から誘われてスタートし、この2年は自分の中で「ライフワーク」といってもいいくらいの位置づけになっていた。しかし読んで理解するのに時間がかかりすぎていて私には少し荷が重かったというのも事実。ただ「縁あって出会ったものだし何とか続けなきゃ」と思い込んでいて、自分からは止められなくなっていた。

だからブログまとめができなくなった流れに寂しさを感じる反面、やれやれ…とほっとしている自分もいる。実際はそんなものだった。

私はやっとやっとで不出来な要約を上げていたが、ワプニック博士の本のレビューや感想を上げること自体が良くないとは思っていない。もっとちゃんと要約ができそれに対して自分の意見がまとめられるようになったら、またチャレンジしたい。

思うこと①-自我の思考システムを手放すのはやっぱりむずかしい

私は9章の3節で中断してしまったが、途中まで読んできて今思うことー。

一つは、ブログでも何度も書いていたが、自我の解体というか自我の思考システムを手放していくのは思っていた以上に難しい、ということだ。

ワプニック先生は、本の中で各章に渡り何度も「自我の恐れ」を節立てして説明しておられた。

自我には深く強い恐れがあってそこを見ないようにするいくつもの防衛システムがある。

ACIMを自分と切り離して対象物として学ぶことは、抽象的で取っつきにくい面はあるができないことじゃないと思う。

一方ACIMを生きることは、非常に難しい。自我の防衛システムが働くため切り離して考えているときのような見方ができないからだ。心がざわつくような出来事が起こったとき、それが自分の罪悪感と恐怖が見せている幻想なのだということが信じられなくなってしまう。

「聖霊の見方」vs「自我の見方」と対比されているが、これは五分五分なものとして差し出されているものではない。

「神からの分離」を真に受けた私たちには自我の見方が必要だった。だから自ら選んで自我と一体化して怒り狂った神から逃げて、この世と個々の肉体を作った。

そして今もまさにそこにいる。

すでに自我と一体化してしまっているところから話がスタートしているのだ。

簡単にできないことはあたりまえ。

理論を理解できたとしても、それを「自分」を通した人生でどれだけ実践できるかはまた別。

だから時間はかかるしちょいちょい起こる判断ミスもOKなのだ

少しずつでも気づいたときに巨大玉ねぎの薄い皮を一枚剥ければ、それでOKなんじゃないかな、と思う。

思うこと②-この世での自分を大切にすることの大事さ

もう一つ感じるのは、この世での自分を大切にすることの大事さだ。

ハシゴの最下段からスタートするから一足飛びに上段には行けない。この世で個として肉体を持って生きている私たちは、そこを蔑ろにしてはいけないのだ。

「世界はない」「この世界とこの世界のやり方を無意味なものとする」と最初に出会ったACIM本『神の使者』(ゲイリー・R・レナード著、河出書房新社)で読んでから、私はこの世とこの世の自分を軽んじていたかもしれない。

この世に真の因果はないというがクローズドシステムの中でも因果はある。特にまだほぼほぼ自我と一体化している時には。だから、この世の因果も「幻想」とするのではなくそれも踏まえながら緩やかに真の因果に焦点を当てていくべきだったと思う。

元々内向的だけど『神の使者』を読みACIMのワークブックをするようになって世の中から退避する傾向が強まった。もう同年代もリタイアし始めているし「どうぞご自由に」って感じもするけれど、ニンゲンとして健全ではない気もする。ACIMを言い訳にしてはいけない。私は疲れていて休みたかっただけかもしれない。

ACIMでいう「自我」と心理学上の「自我」は異なる。

この世で生きる「意識主体」としての自分と自分の肉体を大切にすることは、あたりまえながらとても大事だと思う。私たちは、意識のお皿に乗せられたものしか選択できないのだから。

これを私なりに言い換えるなら、地に足を付けて身の丈で自分なりに生きるということ。中庸を旨とし争いを好まず、目の前の人にはなるたけ親切にするということだ。

若い頃にACIMに出会いこの教えを実践しようとする方は本当に大変だと思う。ニンゲンはこの世界という舞台で我が力を発揮するようプログラムされているように思えるし、若い頃はとくにその影響力がとても強いからだ。20代30代は無理してACIMを実践しなくてもいいんじゃないか…。個としての自分を存分生きてみてからでも遅くないと思う。

今日『神の使者』をぱらぱらめくっていたら「幻想は経験されているレベルで癒されなくてはならない」(p265)という文言が目に入った。

当然だけどここにいる私たちが自らを癒すには幻想としてのこの世が必要なのだ。そこを幻想だからとないことにするのとは違うのだと改めて思った。

あたりまえのことをしながらも、心の奥の声を聞きつつ緩やかに穏やかにいきたい。

この秋はまたまた『神の使者』再読から!?

…で、私。ACIMの端っこにはい続けよう。

この秋、私は「暦」が「還る」節目のときを迎える。この先10年…どう生きたいのか。この世でどう生きたいのか…考えたい。

そして改めて自分にとっての原点『神の使者』の再読もしようと思う。

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