『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』

2021-08-02

『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』を観た

いただきもののチケットがあったので、週末事前の知識もなく映画館に足を踏み入れた。

観たのは『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』

「ソウルの女王」と呼ばれたアレサ・フランクリンという女性歌手のライブのドキュメンタリー映画だった。撮影されたのは1972年。ロサンゼルスのある教会で二日にわたって行われたライブの模様だ。

1972年発売された同名のライブ・アルバム『Amazing Grace』のほうは300万枚以上を売り上げ史上最高のゴスペル・ライブといわれている。

ライブ映像のほうも映画化される予定だったが、駆け出しだったシドニー・ポラック監督ガチンコを入れ忘れて音と映像が同期できないという初歩的な技術ミスで未完のままお蔵入り。それが50年近い時を経て完成し公開に至ったのだという。

あたかもそこにいたかのような臨場感

私は音楽にも映画にも詳しくない。アレサ・フランクリンのこともまったく知らなかった。

しかし、歌の力なのか声の力なのか…その臨場感に圧倒された。

私が繰り返し読んでいる『神の使者』でアサンディッドマスター、アーテンが「(転生していく人生は)一つの映画館を出て別の映画館に入るようなもの」と言っていたが、逆もまたしかり。映画はこの世で別の人生を体験できるものだ。

たった90分なのだけど、編集がほとんどされていないドキュメンタリー映画だからというのもあるだろう、あたかも1972年のアメリカ南部の教会に列席しているかのような錯覚を覚えた。

ゴスペル・ミュージックーACIMとは違うイエス像

後で調べてわかったのだが、歌われていたのはゴスペル・ミュージック(福音音楽)の中でも「ブラック・ゴスペル」と言われるものだった。

奴隷としてアフリカからアメリカに連れてこられた黒人は言葉や宗教を取り上げられキリスト教への改宗を余儀なくされたが、そうした環境の中でも宗教音楽に元々持っていたリズムや音階などを組み入れて独自の霊歌として作り上げていったのだという。

二日目には参加者も聖歌隊と一緒に歌い、踊りながら祈り一緒にトランス状態に入っていくかのようだった。

字幕には「イエスは我々の罪を贖って亡くなられた」「傷つきし身の流せる血を持って罪をゆるさせたまえ」「イエスへの信仰がなれけば生きてこられなかった」…というような内容の歌詞があった(はっきりした言葉は忘れた)。

私がおぼろげながら知っているのは、コースの中でキリスト教を修正しているイエスだ。

イエスに対する解釈はまったく違うなぁと思いながら聴いていた。

アメイジング・グレイス

一日目の最後の曲は「アメイジング・グレイス」だった。

私にはブラック・ゴスペルの背景もなければ信仰もないのだけど、なんでか自然と涙がこみ上げてきた。

他の観客も同じようだった。

ここは、2021年東京の映画館。みんなマスクをして席を1つずつ空けおとなしく座っている。

目にするスクリーンの中は、1972年のロサンゼルスの教会。ほとんどが黒人の方で体を揺らして歌っている。

時空を超えてそのみんなが自分の最も清らかな部分を差し出し合ってひとつになっていく。清められていく不思議な感覚。

何に心が動いたのか

理屈を超えた声(歌)のパワーってすごいな~と思った。

映画の中にいた人たちの熱と観客が時を場所を超えてひとつになった感じ。そのリアリティ…。

一方は49年前の出来事だ。

当時29歳だったアレサ・フランクリンは2018年76歳で亡くなっている。あの時あの場所にいた聖歌隊やライブの参加者も多くがすでに亡くなっていることだろう。

あのみんなの熱い心はどこに行ったんだろう?

いやそもそも今私が目にしている自分の身体だって本当はここにないというのだから、それを疑問に思うこともないのか。

信じるところもイエスに対する解釈も違う。けど、アレサの歌には人種や宗教を超えてみんなが持っている聖なるもののスイッチをオンにするはたらきがあって、その聖なるものをみんなで分かち合って増幅させていたかのように感じた。

それは、厳密に言えば違うのかもしれないけれど、聖霊のような何かのはたらきと言っていい気がした(私が書くと陳腐だけど)。

そういうはたらきって思わぬところでふいに出くわしたりするものなんだな~。

ぼーっとしたまま帰途についた。

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