『Journey through the Text of ACIM』(88)-9章2節 赦し:自我の計画 ②

2021-07-21

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。

9章2節の赦し:自我の計画の後半へ。

本節の前半では、自我の赦しの計画の代表的な担い手「癒されていない 治癒者ヒーラー」として神学者と精神療法士サイコセラピストが例示されていた。後半ではさらにこの二者について洞察を深めていく。

さらに神学者のはなし

癒されていない治癒者たちはみな、何らかの形で自我による赦しの計画に従っている。神学者であれば、自分自身に有罪宣告をし、有罪宣告を教え、恐れに満ちた解決策を唱導するだろう。

彼らは有罪宣告を神の上に投影しているので、神を復讐する存在であるかのように扱い、神からの罰を恐れる。彼らのしたことは、単に、自我と同一化して、自我のすることを知覚することにより、この混同のゆえに、彼ら自身に有罪宣告をしただけである。」(T-9.Ⅴ.3:3-6)

神学者は、罪をリアルにしたうえでこの世で神が神の子イエスを犠牲的に十字架に付けることで人々の罪が贖われるのだとする。

ここでは罪悪感は有罪宣告と罰の世界と連動して現実のものとされる。

世界と個々の存在によって、自分自身への「有罪宣告」は他者へと向けられ、さらに他者への非難が実は自分自身に向けたものだとは気づかせないしくみができあがっている。

また、「有罪宣告」は神の上にも投影され、非二元性の真理において愛の存在である神は、荒々しい復讐心を見せて罰する神へと化す。

何かと戦うことは“自我の罠”

このような概念に対していくつもの反発があったのはもっともなことだが、それに反発するということは、依然としてそれを信じているということである。」(T-9.Ⅴ.3:7)

この文言に対しては「とくに注意すべき点がある」という。

それは「私たちが何かや誰かと戦うとき、意図がどんなに意義のあるものだとしても誤りを現実にしてしまうという“自我の罠”に陥ってしまう」という点だ。

しかし本当に注意を払うべきは、「『存在しない問題』のほうではなく、『問題が決断の主体の外にあると思っているその信念』のほうです。」と説明なさっている。

ひきづつき精神療法士のはなし

(前略)たとえば、新しい形の一つにおいては、精神療法士が悪夢の中の自我の象徴を解釈した後、それらを悪夢が実在すると証明するために使うことがある。そのようにして悪夢を実在のものにした上で、今度はその夢を見ている者の重要性を軽視することにより、悪夢の結果を一掃しようとする。(後略)」(T-9.Ⅴ.4:1-5)

こちらは、精神療法士サイコセラピストについてだ。

「これも自我の戦略のわかりやすい例です。自我は問題を夢見者(心)から夢(肉体)へと巧妙に移し、夢の中の人物に夢が現実で問題の原因なのだと思い込ませるのです。」

精神療法士のケースでは、夢見者/心を罪悪感によってリアルにしその上で軽視する。それが心の否定につながる。

ここでも、心(決断の主体)が罪悪感を選んでいるという真の問題は手づかずのままであり、精神療法士は知らずして自我の手先になってしまう。

自我の矛盾と精神療法の結果

恐れに対抗するための方法が心の重要性を低下せることだとしたら、それがどうして自我の力を増強できるだろう。」(T-9.Ⅴ.5:1)

おもしろいのは、神の子の心変わりというリスクの防衛策として自我は心の重要度を下げる戦略を講じているが、それが自我を強めるのではなく弱めていると記述がある点だ。

「逆説的にいえば、自我の戦略は自我そのものを最終的に弱体化させることになります。自我は自らの存在も心に依存しているからです。」とある。

このように明白な矛盾こそが、精神療法で何が起こるのかを真に説明した者がいない理由である。本当に何も起こらないのである。」(T-9.Ⅴ.5:2-3)

…身も蓋もない言われようだ。

「イエスの『本当に何も起こらないのである』という答えは、精神療法士が心を全く扱わないことで、自我と自我の特別性の思考システムを取り消すようなことが起こらないようにしていることを表しています。」と説明されている。

幻想をリアルにしたところに解決策はない

それでは何が起こるべきなのだろうか。神が『光あれ』と言ったとき、光は現れた。精神療法士がするように、闇を分析することによって光を見出せるだろうか。あるいは神学者がするように、自分自身の中に闇を認めた上で、それを除去できる光は遠くにあると強調しつつ、その光を探し求めることによって、光を見出せるだろうか。

癒しは神秘的なものではない。理解されなければ何も変わることはない。光は理解そのものだからである。」(T-9.Ⅴ.6:1-5)

幻想でしかない闇を分析させることは、「真実の光を選ばせないようにする自我お得意の策略」なのだという。

自我は幻想の世界を幻想の問題で埋め尽くしてから差し迫った問題に対処するようにアドバイスする。前節で述べられたとおり「世界は存在しない問題に対する用をなさない解決策」だ。

私たちは問題に対する解決策を探し求め続けているが、それはこの世では決して見つけることができない。

光を知る方法は、心にある光の存在を受け入れ、心に光がなかったことは一度もなかったのだと理解することなのだ。

袋小路こそ自我の目的地

だとすれば、自我によるこの二つのアプローチは、必ず袋小路に至るが、これは自我特有の『どうにもならない状況』であり、自我は常にそこに向かって導く。」(T-9.Ⅴ.7:1)

結局、神学者のアプローチも精神療法士のアプローチも行き詰る。

この「どうにもならない状況」こそが自我の望む方向なのだ。そしてそれこそ「私たちを問題解決が必要な状態に置き続ける」という自我の目標に適っている。

私たちは、もっといい問題解決の策を手に入れようと明け暮れている。

「例えば、毎週のように郵便受けに入っているたくさんのカタログには、生活をもっと便利に、もっと効率的に、もっとエキサイティングにする製品が満載ですし、よりスピーディなコミュニケーションやエンターテインメントのためのデジタルガジェットの急拡大もしかりです。」

ちょこっと感想

最後の文章…「デジタルガジェットの急拡大」とおっしゃっているが、この本はいつ書かれたのかしらんと見たら、初版の発行が2014年10月だった。亡くなられたのが2013年末。少なくともその数年前に語られたものだろう。

「お話された頃からもっと目を見張るくらいこの分野は進化を続けていますよ~」とお伝えしたい。

デジタルガジェットにとどまらず「もっと便利に、もっと効率的に、もっとエキサイティングに」という問題解決策の“進化”はさらに広範囲で加速度的に進んでいくだろう。

それとともに、別の解決すべき問題も次々現れるのだろう。

そして自我の計画通り意識は外に向かい続け、「心」は隠され「心の力」は否定され心は手つかずのままだ。

現代では心は脳の活動と考えられ肉体の一部と扱われている。奇跡講座でなければこの世界のからくりを知ることはできないように思う。

ただ自分も「頭」で奇跡講座を何とか理解したいと思っているだけで「心」のほうは手つかずなのかもしれない。

効果や成果を意識しすぎることなく細ーくでも止めずに学んで実践し続けられたらと思う。

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