『Journey through the Text of ACIM』(87)-9章2節 赦し:自我の計画 ①

2021-07-15

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。この本読みプロジェクトは先月から止まっちゃってるけどすでに和訳したところがあるから、まとめておこうと思う。

9章2節の赦し:自我の計画。二分割した。

またはじめのはなしから

自我にもまた赦しの計画がある。なぜなら、あなたがそれを求めているからである。とはいえ、正しい教師に求めてはいない。もちろん、自我の計画は意味をなさず、うまくいかない。(中略)自我の計画は、まずあなたに誤りをはっきりと見せてから、その誤りを見過ごさせるというものである。だが、自分で実在すると思い込んだものをどうやって見過ごすことができるだろうか。(後略)」(T-9.Ⅳ.4:1-6)

そもそも「神からの分離」という神への裏切りが起こっていないのに「それがあった」となったところからすべてが始まっている。

繰り返しになるが、「小さな狂った想念(tiny mad idea)」が生じたか…という瞬間、私たちは自我を選んだ。そして分離をゲンジツのものとした。擬人化されてはいるが、自我は私たちの心の中の「分離を信じる信念」だ。

私たちが分離をゲンジツと思い込んだがため、神へのとてつもない罪悪感と報復の恐れもまた本物として抱えることとなった。

自我という存在は分離を信じる信念によって支えられ生きながらえているので、自我はこの勘違いを気づかせたくはない。今の状態がエンドレスに続くよう願っている。

そのため選び直しができる「心」に決して私たちを近づけてはいけないと思っている。

そこで「世界」と「肉体」を作り、そこに「心」を投影させ「ここにぞ問題あり」と見せている。

自我の赦しの計画

ワプニック先生は、前節でイエスは「世界は存在しない問題に対する用をなさない解決策である」ことを教えなければならなかったと述べておられる。

自我の赦しの計画においては、

①まず罪を現実のものとして見て、

②それに何かをする、

こととなる。例えば、罪人や悪人と思われる者を裁いたり罰したり、あるいは逆に犯した罪を許したりする。

しかし、本当の「問題」はこの世に見える罪や過ちではない。分離を本当のことだと思い込み、その後自我の見方を選んだその選択にある。

したがって、この世の誤りを現実のものとして捉えてはならないと説明されている。それによって真の間違いのほうは見過ごされ温存されたままになってしまうからだ。

癒されていない治癒者

自我の計画の担い手として代表的なのが、「癒されていない 治癒者ヒーラー」だ。

癒されていない治癒者、人を助けようとする善意の人であることが多いが、自分の中の無意識の罪悪感とその投影というメカニズムを理解しておらず、心で行われた選択こそが間違いだという認識がないまま他者を癒そうとする。

「ここでのポイントは、癒されていない治癒者は、問題がないところで問題の解決に取り組んでいてヒーリングという形での介入を必要とする状況や肉体症状を作り上げているという点です。」とワプニック先生。

癒されていない治癒者は心でなされた選択という真の問題を否定している。したがってその癒しは「祈りの歌」で「分離するための癒し」と呼んでいるものなのだという。

人が癒されていない治癒者になってしまうのは、自分自身が癒されていないのに人を癒そうとするからだ。

真に癒しが必要なのは心であって問題があるように見えているところではない。問題の原因をすり替えることによって罪悪感は結果的に手つかずなまま心の中でうずき、他者に投影されるしかなくなる。

「以上のことから真の治癒者や奇跡を行う者になるには、肉体上の問題は心が守っている罪悪感の投影だと信じる必要があることがわかります。」(ワプニック先生)

このような認識を持っていなければ、たとえ親切な介入であっても真の癒しは不可能である。

そしてそれこそが自我の隠されたゴールなのだ。

神学者と精神療法士

ここでは多くの形態の中から神学者と 精神療法士サイコセラピストが例示されている。

癒されていない治癒者は、その言葉の定義から言っても、自分が受け取っていないものを与えようとしている。たとえば、神学者であれば、『私は惨めな罪人であり、あなたもそうである』という前提から始めるかもしれない。精神療法士であれば、攻撃は彼自身と患者の両方にとって実在のものだが、どちらにとってもそれは問題にならないという、同様に信じがたい信念から始めることになりやすい。(後略)」(T-9.Ⅴ.1:3-6)

ワプニック先生は、「癒しとは心だけのものです。というのは病んでいるのは心(罪悪感を選んだ心の決断)だからです。病気になるような肉体はないのです。」とおっしゃっている。

癒されていない治癒者は、心と心がもつ力を恐れているがゆえに癒しが受け入れられずにいる。それでは解決はおろか問題の原因は心にあると人々に理解させることなどできるはずないのだともおっしゃっている。

神学者と精神療法士が癒されていないわけ

神学者は罪をリアルにしたうえで、神が神の子イエスを犠牲的に十字架に付けることで人々の罪が贖われるのだとする。

しかし「罪」とは自我がでっちあげた概念だ。罪など存在しない。

神学者が癒されていない治癒者と見なされるのは、罪が肉体にあると捉えているうえに、罪悪感の本当の原因である心の決断は隠されたままで真の救済からは遠ざけられているからだ。

精神療法士は、問題を罪としてではなく記憶の奥に押し込めた過去に起因する神経症だと考える。この神経症を心の選択と紐づけるならば有効だが、そのようには見なされていない。

罪悪感を現実のものとしたうえで心理学的アプローチを施す。

したがってこの場合もまた真の問題は手つかずなまま投影される。

「(神学者も精神療法士も)自分自身がマインドレスな状態で、どうして心の力を尊重できるというのでしょうか。」(ワプニック先生)

私たちは機能することを願っていない!?

こうした自我の赦しの計画はうまく機能しない。

だから人気があるのだと、ワプニック先生はおっしゃっている。

奇跡講座はちゃんと機能する。

だから人気がない、と!

「自我としての私たちは効果のないものだけを欲しがります。それは、車や家電、人間関係や国際関係、肉体など、壊れているものがその問題解決へと駆り立てるからです。私たちは問題が解決することを望んではおらず、むしろ自我を支持した心の決断が永久に守られるよう、問題が絶え間なく続くようにと願っているのです。」

ちょこっと感想

「肉体はない」「世界はない」と言われても、今私が知覚できる段階ではまさしく肉体はあり、肉体の病気とその原因や治癒方法という因果もあるのだから、頭でわかる気はするけれど完全な腑落ち感はない。

前にテレビの何かのコメントで鈴木紗理奈さんが「よく『頭ではわかるけど実行できない』って言うじゃないですか。でもそれ本当は頭でわかってないんです。わかっていたらできるんです。」とおっしゃっていた。

それが印象に残った。

私が「奇跡講座でイエスが言っていること頭ではわかるような気がするけど、この世では適用がむずかしい」と思うのは、実は頭でもわかっていないからなんだと思う。

ワプニック先生の最後の説明にはくすっと笑ってしまった。

先月パソコンの画面が急に見えなくなったのも、問題のすり替えだったの!?と思い…。

意識を心に向かわせないため、代わりに何かを壊してその解決に意識を向けさせ忙しくさせてってパターンのやつ!?

「忙」は「心を亡くす」って書くから、あまりに忙しくしすぎる状態が続くのは自我のマインドレス化計画のなせる技なのかもしれない…。

若い頃は忙しって忙しさをやりこなせる自分に充実感を感じたこともあったけれど、それもまたうたかただったな…

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

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