『Journey through the Text of ACIM』(86)-9章1節 贖罪の原理に対する自我の恐れ③

2021-06-22

ワプニック先生のACIMテキスト解説本Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。

引き続き9章1節 贖罪の原理に対する自我の恐れ。ここはおもにテキスト9章8節「壮大さと尊大さ」からの引用をベースとしており、この点から自我の恐れを見ていくことになる。

壮大さと尊大さ…選ぶのは

壮大さは神に属し、神のみに属するものである。したがって、それはあなたの中にある。」(T-9.Ⅷ.1:1-2)

いかにかすかにであってもそれに気づくときは、あなたはいつでも自ずと自我を捨て去る。なぜなら、神の壮大さの前では自我の無意味さがすっかり明らかになるからである。」(T-9.Ⅷ.1:1-2)

(前略)自我が差し出せる贈り物は、慢心だけである。自我の尊大さが、神の壮大さに代わる自我の選択肢である。あなたはどちらを選択するだろうか。」(T-9.Ⅷ.1:4-7)

壮大さは神のもので、それはたとえ分離の夢を見ている時でも失われることはなく私たち神の子の記憶の中にもある。

一方、尊大さは壮大さの代わりに自我が差し出すもので、中身は憎しみの想念に過ぎず、狂気のなかで「自分は神よりも偉い」と宣言している。

あなたはどちらを選択するだろうか…とイエス。

「どちらを選ぶかは明らかです。というのは、私たちはすでに選んでいますし今なお選んでいるからです。」とワプニック先生。

繰り返しになるが、私たちは自我のストーリーに乗っかってここにいるのだ。

そして、これが西欧諸国で聖書が驚異的な人気を博しているわけでもあるという。

聖書はすなわち「自我の書」であり、個人や特別な自己、人格などを神のものとして讃えているからだ。

自我の尊大さの背後には、「悪と闇と罪が住みついている。(W-pI.93.1:1)」という自己概念がある。これはもちろん罪悪感であると同時にキリストとしての壮大さを隠すための防衛でもある。

壮大さへの自我の恐れ

自我は神の壮大さの前では動けなくなる。なぜなら、神の壮大さがあなたの自由を確立するからである。あなたの実相についてかすかにほのめかすだけでも、文字通り自我をあなたの心から追い払うことになる。なぜなら、そのときあなたは、自我に対する一切の思い入れを手放すからである。」(T-9.Ⅷ.4:1-2)

私たちが己の壮大さに気づけば、自我への投資を引き上げることになる。

自我の存在を支えているのは私たちの自我への信念だけだから、これを引き上げられては自我は消えてしまう。

これが、自我と一体化している私たちの部分にとっては強い恐怖となる。

「このテーマが私たちのシンフォニーにおいてどれほど重要な意味をもち、どれほど頻繁に語られているか、もうおわかりでしょう。」(ワプニック先生)

そしてこれも前述のとおりだが、だからこそ自覚しているか否かに関わらずコースを学び実践することに強い抵抗を持つ。

自我、壮大さへの信を徹底阻止

(前略)自我はあらゆる努力を払って挽回しようとし、あなたの解放を阻止するためにエネルギーを総動員する。自我は、あなたは正気を失っていると告げるだろう。そして自我が信奉する卑小さゆえに、壮大さがあなたの真の一部分であるはずがないと論じるだろう。(後略)」(T-9.Ⅷ.4:3-8)

私たちが壮大さに信を置こうとすると、自我は「エネルギーを総動員して」阻止する。

自我の恐怖は攻撃に転じる。自我は、私たちの壮大さに対してパワー全開で攻撃する。この点も重要な留意点だ。

私たちは自分の壮大さを、尊大さと卑小さという想念に隠している。そして尊大さ、卑小さは特別性というコインと裏面なのだ。

誰もが特別性を自分のアイデンティティーとしている。たとえ肉体から離れた…としても。

「個としての自分が存在し続けられるのであれば、(肉体が)消えてしまっても問題ないと思うことでしょう。しかし、天国には個々の自己というものはありません。神の愛の生ける一体性は、いかなる分離したアイデンティティとも相互排他的なのです。」

恐れからACIMを幻想に寄せてしまう

(前略)あなたの壮大さは、自我に対する神の答えである。なぜなら、それは真実だからである。卑小さと壮大さは共存不可能であり、また、両者が交互に入れ替わることも不可能である。」(T-9.Ⅷ.6:2-4)

前節で心の中の二つの評価は相互排他的という記述があったが、壮大さと卑小さも相互排他的で“どちらか一方”だ。

恐怖のなかで私たちは、自身の特別な自己を卑小さという土壌に根づかせる。そして卑小さは尊大さを装う。

私たちは奇跡講座の壮大さに恐れを抱き、自我は特別性を通してこのコースに参加しようとする。イエスが導くとおり幻想を真理に持っていくかわりに、コースを幻想の方に寄せてしまう。

 

このコースの主旨は、赦しを教えることだ。

贖罪を真理として受け入れ、聖霊の赦しのプロセスを実践することが求められる。

しかし、自我は罪の過ちを現実のものとしてうえでこれを赦して助ける「自我バージョンの赦し」(破壊するための赦し)の計画を持っており、次の節ではこれについて見ていくことになる。

ちょこっと感想

ざっくりまとめには書かなかったが、「個としての自分が存在し続けられるのであれば、(肉体が)消えてしまっても問題ないと思うことでしょう。しかし、天国には個々の自己というものはありません。」という箇所があり、印象的だった。

奇跡講座の学習・実践は、自分が消えてしまうんじゃないか…という恐怖とのたたかいなのかな。

恐怖を感じるというのは、自分が自我のほうに信を置いている証拠なのだろう。

これに関しては時間をかけてくりかえしトライするしかないような気がする。

自分の立脚点を自我から聖霊へー。

ワークブックはやっていないけれど毎日短い瞑想をしている。

そこで聖霊を想った際、「(私の)聖霊さん」を思い起こしていた。

私がいないのと同様、「(私の)聖霊さん」なんてものもない。

…やっぱり恐く心もとない。

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

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