めざすべきは自分の信念を捨てること!?

2021-03-19

友人のピュアさに自分を鑑みる

色えんぴつ画講座の先生が主催する「トーキョー・イロエンピツ・スタイル展覧会」の続きのはなし。

私を色えんぴつ画講座に誘ってくれた友人から「先生の動画配信すごくいいですね。刺激になります。」とLINEが来た。何でもFacebook上の動画配信で会場からひとりひとりの絵を講評しておられるらしい。

昨夜、「動画見た?」と再びLINEが来ていたことに気づいた。「先生が展示会場にひとりいてみんなの絵を見ながら、この仕事をしてよかったと泣きそうになったくだりを見て、私も泣きそうになった。この先生についてよかった」と感動していた。

私は友人の素直さ、ピュアさのほうに心動かされた。

見なきゃ…とようやく先生のFacebookにアクセスした。一日なんと4回にわけて合計184分、展覧会の会場から生徒ひとりひとりの絵についてエピソードを交えて紹介していた。しかも「この人は最近色の出し方すごい上達されたんですよ。」などと楽しそうだ。

私は1時間見たところで疲れて、自分が通っているクラスを探してそこを見た。

しかし友人も先生もピュアで絵を楽しんでいる、と感じた。

「うまくなければ価値がない」という信念…?

自分を鑑みた。

私にはどうも「うまくなければ(上手にできなければ)価値がない」という観念があるらしかった。

そして「絵がうまいとは何ぞや」がわからず、そのわかりやすい一つのモノサシ、写実性に従ってみる。

しかし写実性に向かうならば写真がいちばんじゃない?とどこかで思っていて、「うまく=写実性」というベクトルで時間をかけてみるものの、そのうち整合性が崩れ全然ダメじゃん、といやになってしまうというパターンをたどっているようだった。

私はひそかに絵を描くことを(根気よく写真を写すという意味で)“写経”と呼んでいた。もう根気だけの修行みたいなもんだって。こういうのを絵心がないというのかもしれない。

先生がみんなのことを褒めてくれるのは、先生としての生徒への動機づけだと思っていたけれど、先生は本当に絵を楽しんでいるのかもしれない。友人やクラスのみんなも。

私に求められるベクトルは、私の目線で「うまく」なろうとするんじゃなくて、「うまくなければ価値がない」という自我の信念を取り消すことのほうかも。

「うまくなければ価値がない」…はこの世的に言えば、完璧主義だった母親の観念から来ているようだ。

この信念が再?浮上したのは、今なのだから今が手放すチャンスなのかも。

純粋に描くのを楽しむってどういうことだろ?

私にもできるのかな。

「大学進学」を手放した春子さん

そういえば、私が時々ここで紹介させてもらった58歳になるブログの春子さん、13歳の時にやめたピアノを再開し音大に進学したいと先生に付いて頑張っていたが、3月になって「進学をやめる」と書いておられた。

ブリーフリセット(信念の取り消し⁉)という講座に通って、親が「大卒」ということに非常に価値を置いていて高卒の自分が大学に行くことで「親に認めてもらいたい」という欠落感が動機にあったこと、その根底には「自分が、自分を認めていない」という観念があることがわかったらしい。

春子さんが進学したい動機は、春子さん以外の人にはみんな「わかっていたこと」だと思う、ああ、親に認めてほしくて親の理想の自分を追いかけているのだな、と。

でもこういうことは、本人が腑落ちしないと、変えることはできない。

誰でも人のことはよくわかるのだ。

「親に認めてもらいたい」という欠落感は、元を正せば、「神から分離した一体性に欠けた自分」という前提の上に立っている。

そして私は今や、その前提が間違っている、と少なくとも理屈では知っている。

春子さんが周りのみ~んなには見えていて自分が気づけていなかったような信念、私もたくさんたくさんある。いや、むしろほぼそれでできている。

遅ればせながら、、、だけど、もう不要になった観念に気づいたらひとつずつ手放していきたい、と思う。

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