『Journey through the Text of ACIM』(71)-8章2節 一体性を選ぶことに対する自我の恐れ①

2021-02-23

自我の恐れ

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。8章2節前半。未だにまとめ方が定まらない。

8章1節では、イエスが私たちの真の自己への讃美歌を歌っていたが、第2節は、おなじみ自我の恐れ。では内容へ。

イエスは「このコースを学ぶための動機となるのは、智識ではない。平安である。」(T-8.Ⅰ.1:1-2)と述べている。それを受けてワプニック先生は、平安は教えられうるものだとされ、その方法は赦しをおいて他にはないとおっしゃっている。

だが、自我は私たちにこの部分を直視してほしくない。そこには恐れがあるから。

その「一体性を選ぶことに対する自我の恐れ」―それが本節のテーマだ。とくに気になったところや重要だと感じたところをピックアップした。

私たちは本心では智識を求めていない

智識とは神の意志そのものである。あなたが神の意志に対抗しているなら、どうして智識をもてるだろう。私はすでに、智識があなたに何をもたらすかについて述べたが、おそらくあなたはまだそれを全面的に望ましいものと見なしてはいない。もしそう見なしていたなら、自我から忠誠を求められるとき、これほどあっさりと智識を捨て去りはしないはずである。」(T-8.Ⅰ.1.7-10)

ワプニック先生はこの一節を取り上げ、私たちが神の意志に抵抗し続けている理由を挙げておられる。

それはすなわち「(本心においては)私たちが智識を望んではいないから」だと。

私たちは天国の対極であるこの知覚の世界において分離した存在であると信じている。

そして、智識を望ましいものではないと捉えている理由は、「一体性へと溶け去って自分を自分たるものに特徴づけている考えや感情、経験といった特別性を失いたくはないから。」(ワプニック先生)だ。

それどころか本心では、私たちは贖罪の原理のほうが間違っていると証明したいのだと述べられている。

自我は無。力を与えているのは私たち

自我の声は幻覚である。自我が『私は実在しない』と言うはずはない。」(T-8.Ⅰ.2.2-3)

だが自分の幻覚をひとりで払いのけることが、あなたに求められているのではない。ただ、それらの幻覚が自分にもたらした結果に照らして、それらを査定するよう求められているだけである。」(T-8.Ⅰ.2.4-6)

自我は無だというのは、コースを通じて述べられているイエスのメッセージの中心だが、本節でもくりかえされている。

自我は無。私たちが自我を支持しているから自我に力があるように見えるだけで自我自体には力はない。

ただ、私たちは「聖霊に気づいていないだけでなく、自我にも気づいていない」(ワプニック先生)。

ゆえに再選択の可能性にも気づいていない。というのは、自我の戦略にはまり込み自我と一体化しているから。

意味ある決断を可能にするには、なぜ自我の声に耳を傾けることを選んだのかその理由を理解する必要がある。そのためイエスは私たちの自己認識を自我から決断の主体へとシフトさせるよう要請している。

「自我は無」ということは、「問題は自我それ自体ではなく、自我を信じる決断の主体のほうだということを意味しています」(ワプニック先生)。

「自我は無」ということこそ、赦しの中心で奇跡の鍵でもある。

自我は無だと認識することは、心の選択力回復の第一歩といえる。

存在しない自我の声がなぜこんなに執拗なのか

存在しないものの声がどうしてそれほどまでに執拗であり得るのかと、あなたが尋ねるのはもっともなことである。あなたは、たとえ実在しないものでも自分が望んでいるものには歪曲する力がある、ということについて考えたことがあるだろうか」(T-8.Ⅷ.8.1-2)

「私たちの誕生は、自我の非現実性という真理を見えなくさせるほどまでに、私たちが個の存在でありたいと望む、私たちの狂気を反映したものです。」(ワプニック先生)

私たちは個としての己の特別性に執着するあまり目がくらんでいて、それが引き起こしている大混乱に気づくことができていない。

それが私たちの問いに対するイエスの回答でもある。

つまるところ、私たちは「特別な個の自分」でいたいのだ。

それは、自分が自我と一体化しているため、起こっていることの全体像が見えていないためでもある。

だからこそ、自我と一線を引いて自我の思考のメカニズムを知る必要がある。

自我の思考システムの矛盾

常に心を弱めたいと思っている自我は、心を破壊しようとして心を肉体から分離しようとする。しかし自我は、自分は心を保護しているのだと実際に信じている。」(T-8.Ⅸ.6.1-2)

その理由は、自我は心は危険だと信じており、心を無くすことが癒すことだと信じているからである。」(T-8.Ⅸ.6.3)

しかし、心を無くすことは不可能である。なぜなら、それは神が創造したものから無を作り出すことを意味するからである。」(T-8.Ⅸ.6.4)

ワプニック先生は、2つ目のT-8.Ⅸ.6.3こそ、自我の思考システムの本質を明確に示しているとおっしゃっている。

自我にとって心は、自我を消滅させる力を持っているから危険。だから、私たちをマインドレス化させる。

しかし、3つ目のT-8.Ⅸ.6.4にあるとおり、「心を無くすことは不可能」だ。

「くりかえしになりますが、これが自我の思考システムの矛盾であり、自我の恐怖の元です。」(ワプニック先生)

そして、実のところ自分をマインドレスだと信じさせるのは自我ではなく、私たちの心(決断の主体)のほうだ。

自我は己の生存をかけて私たちの目を外側に向けさせて、マインドレスな状態をキープし続けようとしているのだという。

ちょこっと感想

もうちょっとコンパクトに…と思いながらも、まとめ方がまた前に逆戻りしつつある。

今日「アメリカでの新型コロナ感染症による累計の死者が50万人を超えた」とのニュースを見た。これは「二度の世界大戦とベトナム戦争による米国人死者の合計より多い」という。

本節の途中に「私たちは平安と真逆の世界を作り上げ、絶えず証人たちに実際戦争が引き起こされていてそれに勝たねばならないとデモンストレーションするよう呼び掛けている」といった件があったが、この世界的パンデミックもやっぱりその自我の戦略の一環ということだろうか。

外の世界には、私的なささやかなことから地球レベルのことまで様々な問題がある。

対処は必要だ。

ただその前に、他でもない自分の内側、心をまず鎮めることが大事だと改めて感じた。

動揺している自分に気づいたら、自我の思考メカニズムとその幻想性を思い出して、聖霊に心を寄せて手放していくこと。

渦中にいるときは難しい。けどそれをなるたけ実践していくことかなぁ、やはり。

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

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