『Journey through the Text of ACIM』(69)-8章1節 一体性 – 私たちの自己への讃美歌①

2021-02-13

テキストではレアな、私たちの自己への讃美歌

ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。8章1節。

序章でワプニック先生が、「イエスは幸せそうに延々と続く恍惚たる歌を歌っている(Jesus sings an ecstatic song that seems happily to go on and on. )」と説明なさっていたところ。テキストではここだけというレアな箇所だ。初めのほうでは、2~4節にかけての引用がある。

最初の引用文は、2節7段落目。

私が、『あらゆる力と栄光があなたのものであるのは、神の国が神のものだからである』と述べたときに意味していたことは、『神の意志には限りがなく、あらゆる力と栄光がその中に宿る』という意味である。それは果てしない強さと愛と平安を宿している。(中略)

あなたの創造主はご自身と同質のものを創造するだけであるから、あなたは創造主と同質である。あなたはあらゆる力と栄光である存在の一部であり、それゆえに、その存在と同じく限りなきものである。」(T-8.Ⅱ.7)

この“讃美歌”の部分は、意味を解釈するというより美しい音楽を楽しむように、イエスの歌を味わうのがよいように思う。

ワプニック先生は、これこそが真の私たちの現実だとおっしゃり、私たちに求められているのは、私たちが持つ暗い想念を聖霊の元に持っていくことだと述べておられる。

そしてイエスが私たちの機能は天国においては創造することであり、幻想の世界では赦すことと癒すことだと述べている(T-25.VI; W-pI.192等参照)ことに触れ、ここ(幻想世界)で私たちは創造という現実を教えることはできないものの、その反映としての赦しを学ぶことができる、と言及なさっている。

神の国を回復させるために、聖霊は、すべての力と栄光以外の何に向かって訴えられるだろう。だとすれば、聖霊は、神の国そのものに対し、それ自体の本性を認めるようにと訴えかけているにすぎない。(中略)

覚醒は、神を代弁する呼びかけに応えて、神の国の中を楽々と喜び勇んで駆け抜ける。これが、神の子の一人ひとりが自らの創造主を代弁する声に対して示す自然な応答である。なぜなら、それは神の子の被造物だちと、彼自身の延長を代弁する声でもあるからである。」(T-8.Ⅱ.8)

神の国とは完全なる一体性の状態であり、ここ(地)では誰ひとり排除されることのない共有されている利益の状態として反映される。このヴィジョンが一人に選ばれたならすべての神の子に共有されるという。

また赦しについて「赦し、つまり奇跡とは、私たちが離れ離れになっているかのように見えた分離の夢を元に戻す聖霊の手段であり、それによってこれまで幻想の狂気と同一化していた心に正気を取り戻すものなのです。」と説明なさっている。

「一なる子の分割なき意志」から

5節「一なる子の分割なき意志」からも“讃美歌”の引用が続くー。

だが、癒すということは依然として、全一にするということである。したがって、癒すということは、あなたと同じ者たちとひとつに結びつくということである。(中略)神を認識することは、あなた自身を認識することである。神と神の被造物の間の分離というものは存在しない。」(T-8.Ⅴ.2:4-8)

「興味深いことにイエスは、ここで赦しの基礎となることを言っています。『したがって、癒すということは、あなたと同じ者たちとひとつに結びつくということである。』というところです。」とワプニック先生。

赦しの概念がテキストで紹介されているのは9章だが、その前振りとして登場している。

そして「上記テキスト引用文の最後の文には、贖罪の原理についての記述もあります。」とおっしゃている。「神と神の被造物の間の分離というものは存在しない。」…つまり、私たちの源からの分離は夢の中以外では起こっていないという箇所だ。

ここでは、一なる子の一体性に向けた讃美歌が続く一方で、「存在していないものの違いに目を向けるのではなくキリストのヴィジョンを通して神の子の一体性に関心を向けるべし」というイエスの中心的メッセージも示されているのだという。

「神の宝」から

6節「神の宝」から

世界が拒否している神を、私たちは讃えよう。神の国に対して世界は何の力もないからである。神によって創造された者は誰でも、永遠なるものにしか喜びを見出せない。それは、それ以外のものが彼から奪われているからではなく、彼にふさわしいものは他に何もないからである。(後略)」(T-8.Ⅵ.3)

ワプニック先生は「犠牲(剥奪)は罪と罰の思考体系の基礎をなす自我の中核的思想のひとつ」としつつ、「上記の一節は、現実の喜びのために幻想の幸せを手放すことが犠牲には当たらないのだと強調することで、この狂った思考を優しく解きほぐしています。」と述べられている。

「分離されたすべての神の子が共有しているアイデンティであるキリストの豊かさという喜びを受け入れるなら、その時私たちが“犠牲にする”のは無に他なりません。」

ちょこっと感想

少し間が空いたためか、あるいは天国、神、創造、一なる子についての表現が多いからか、読み進めるのが前以上に難しかった(自我の思考についてのほうが理解しやすい)。また、まとめる際には、引用箇所のどれをピックアップすればよいか、迷った…。

ただテキストの他の部分にはあまり見られないイエスの高揚感は伝わってきた。

やはりここは解釈するというより、その高らかな歌を味わうことでよいと思う。

ACIMテキストは理屈が通っていて一貫している。

ただこの世に適用しようとすると、たちまち壁に阻まれる。

この世とACIMテキストを繋いでいるのが、ワプニック先生の解説だと思うけれど、それでもやっぱり遠い…。

私の場合、魔術的なものも含めこの世的ツールをもっと活用しながら(なるたけ)実践し、理論学習面では地道にテキスト読みを積んでいくのが合っているかなと思う。

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』中央ハート出版社)

“『Journey through the Text of ACIM』(69)-8章1節 一体性 – 私たちの自己への讃美歌①” への2件のフィードバック

  1. はじめまして! より:

    はじめまして!

    『奇跡講座』から引用される時は

    https://jacim.com/acim/?page_id=5583
    コチラを参考にされてみるといいと思います^ ^

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