帰京

2021-01-06

東京へ

昨日東京に戻ってきた。

一昨日母は「いつもあんたが帰ったら、『行ってから今日で一日』『今日で二日』…って数えとるが。」と言った。

そんな…お母さん、大げさな…(^-^;

「ううん、ホントやよ。いっつも数えとった。」

…。

「でも、今年は数えんでもいいわ。ユーチューブ見るもん♪」

…!?

母は今年の正月、私が数年前にあげた中古iPad miniでYouTubeを見ることに嵌った。

これまでも「二重太鼓の結び方」や「栗の渋皮煮づくり」など何かを知るためYouTubeを見ることはあったが、今年はエンターテインメントとして興味ある歴史や建築、歌などの動画を見ることを覚えたのだ。

「色えんぴつ画を始めたい」と聞いて、母用に買っていった色鉛筆の箱は、すでにiPad miniを(目の高さに近づけるために)置く台と化している。今後、本来の目的で使われることはあるだろうか。

私は刺激過多になってしまうからYouTubeを見るのがあまり得意ではないが、80代をもテレビから引き離して釘づけにするYouTubeってすごい…と思う。

まず、そもそも何だっけ?を思い出したい

さてACIMのこと。

前年度はまだワークブックをしていたので実家でも中断されいらつきつつもワークをしていたが、今回は何にもしなかった。

「初心に返りたい」と思いACIMと出会うきっかけとなった『神の使者』を持っていったが、新幹線の中で少し読んだきりだ。

年末の日記でも書いたが、去年は、赦しの実践が浅く未だ自分をがっつり肉体だと思っているというのに、この世と肉体を軽んじ過ぎたかな、と思っている。

ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』を読み進めることを「宿題」のように感じ「とにかくやるのだ」と自分のエネルギーのほとんどを費やしていた。エネルギッシュなほうじゃないしキャパシティが小さいため、他のことがなかなかできなかった。

それにより、仮初めの世の実人生(ややこしい)をないがしろにしすぎた気がしている。

テキストに馴染むためには昨年はそれでよかった。しかし「実人生」がわからなくなっているのはちょっとまずいんじゃあ…と思っている。

『神の使者』の第2章に、

「きみたちがこの世界でどんな行動を取るか取らないかはどうでもいいーただし、行動にかかわるきみたちの見方や姿勢は重要だがね。」というアーテンの発言がある。後半部分が要なのにそこは曖昧にしつつも「この世での行動はどうでもいい」というところをがっつり取り入れてしまってたような?

今年はまず、そもそも何だっけ?なんでこれをやりたいと思って始めたんだっけ?というのを思い出したい。

どんどん「奇跡講座」色が薄まって「ダイアリー」になるやも…。

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