12月25日のイベント

2020-12-26

「CTが恐い」病

昨日25日、私にとってはちょっぴり気合がいるイベントがあった。

半年に一度の病院の検査だ。

甲状腺の左(悪性・小)と右(良性・大)にある腫瘍の経過観察に加え、肺にあるというガラス状陰影の経過観察のため胸部のCT検査をすることになっていたのだが、とくにCT検査に抵抗感があった。数か月前美容院で「CTによる被ばくは危ない」という女性週刊誌の記事を見て怖くなったのだ。

病気を患っている、あるいは過去に患っていた方々、あるいは人間ドックを定期的に受けているといった方からみれば、そんな大した放射線量じゃあるまいしと思われるのはわかる。だけど、“専門家”のコメントを多用して恐怖心をセンセーショナルに煽る(ように感じた)記事にまんまと嵌り、検査日が近づくにつれどんよりした。

「病気の早期発見のため」というけど、そんな前のめりに見つけてくれなくていいのにな…。

毎年区の健康診断でレントゲンは撮っているわけだし…必要ないと思うんだけどな。

コロナ禍を理由に延期してもらおうか…。

ぐじぐじとくすぶっていた。

どうも私は、権威者としての主治医に「神」を投影しているようだった。その上でその神が私を検査台の上に乗せCTという罰を与えるかのように妄想してしまっていたのだ(もちろん神との分離を前提として)。

ビビりすぎだ…と自分でも思う。

でもでも…(>_<)

私はACIMを何年か勉強しているつもりだったが、ACIMに出会っていない人以上に未だ身体への執着と恐怖心が強い。

どう考えたって自分を身体だと見ている。

「傷つける一切を聖霊に渡しなさい」

25日当日の朝、前夜ブログにいただいていたコメントを見つけた。そこにはコースの引用があった(オーシャンさん、ありがとうございます)。

このクリスマスには、あなたを傷つける一切を聖霊に渡しなさい。あなたも聖霊と一緒に癒やすことができるように、あなた自身を完全に癒やしてもらいなさい。そして、私たちが共にすべての者を解放することにより、私たちの解放を一緒に祝おう。何も後に残してはならない。」(T-15.Ⅺ.3:1-3)

あなたを傷つける一切を聖霊に渡しなさい。

私を傷つけるものがあるとすれば、やっぱり私の恐怖と攻撃の想念だ…、自分を「個」としての肉体だと思って攻撃をリアルにしちゃっている…。私の自作自演。

その一切を聖霊に手渡す…。

今日はこれでいこうと思った。

検査と診察を受ける

いっつも大勢の受診者で混みあっている病院だが、昨日はえらく空いてた。

やっぱりみんなコロナを気にして来ないのかな。血液検査もエコー検査も待っている人は皆無ですいすい進む。

そしてCT検査もすんなり終わった。

私は寝っ転がっているだけだし。

私の想念こそが私を傷つけようとしているわけだから、想念を手放すことこそ求められている。

ただ私のように怖がる人が増えたためか、検査の前に今回初めてリスクと当院の方針について検査技師から説明があった。

そして主治医による診察ー。

受診者が少なかったためか主治医の先生には、いつもよりゆとりというか人間味が感じられた(それとも私の見方が変わったのか)。

良性腫瘍の、何年か前の画像と今の画像を並べて映し出して見せてくれて、

「見比べてみてどう思われますか?」と私に意見を聞かれる。

「ぜっんぜんわかりません。」

ふふっ(笑)と先生。「黒く映っている部分が増えているでしょう。これはしこりが液体化しているということでよい徴候です。これが続いていけば融けていきますしそうしたら注射器を刺して吸い取れますから。」

ふうん。

肺のCT検査については、「そもそもなんでCTを撮ることになったんでしたっけ?」と、過敏になっていた私をよそに気楽な様子。検査結果がそんな不安視するものではなかったからかしらん…と、こちらも少し楽になった。

正式なCT検査結果は後日郵送なので何ともいえないが、甲状腺の腫瘍のほうは変化なしとのことで安堵した。

そういえばイエスは…

とりあえずは「宿題」を終えられた…と病院を後にした。

12月の夕暮れは早い。例年イルミネーションで美しい通り、今年イルミネーションはない。Apple前には人だかりがありApple店員が何人も店の外で商品を手にお客に説明していた。

そういえば…今日全世界の人にご生誕を祝われているかの方は、磔刑においても苦しまなかったんだっけ、と思い出す。

信じられないな…どうしたらそんな穏やかにいられるのか。

心に罪悪感がなければ苦しみもない…。

果てしなく遠い道だな。

自分のヘタレ具合を目の当たりにして、やっぱり“学習の梯子の最下段”だ…と再認識した。

“12月25日のイベント” への2件のフィードバック

  1. オーシャン より:

    25日は大変な日だったんですね。もしかしたらその日聖霊が、私のコメントを使ってタマさんにメッセージを届けてくれたのかも知れませんね。
    今年は感染症への恐怖が呼び水となり、感染者に対する差別や自粛警察など、人々の怖れが闇の使者のようにあちこちで浮かび上がってきました。この世界が幻想だと思っていても、エゴは「私たちは傷つきやすい身体だ」と繰り返し“現実”を突きつけてきます。
    イエスが、磔刑というかたちのレベルにおいて苦しまなかったのは、自分の心を聖霊に委ね、すべてを引き渡したからなのでしょうね。“それは私たちにもできるよ(既にできているよ)”とイエスは言ってくれています、
    自分が本当に苦しいとき、痛み(心も含めて)に苛まされている時は、自分で頑張ろうとせず一歩下がって「あ゙ーもう駄目だ。自分では何もできません。聖霊に全部お任せします」と祈るのもアリなのかなと思います。(私よくやります)

    • タマソニア より:

      オーシャンさん

      見てくださってありがとうございます。
      小さなことで動揺してて恥ずかしいです
      ドタキャンはできなかったので25日にはもう落ち着いてはいたのですが、朝、いただいたコメントを見つけて背中を押してもらったというか澄んだきもちになれました。タイムリーな言葉をありがとうございます。

      「自分が本当に苦しいとき、痛みに苛まされている時、自分で頑張ろうとせず一歩下がって『あ゙ーもう駄目だ。自分では何もできません。聖霊に全部お任せします』と祈る」…というのは、いいですね(私はつい「自分」で戦おうとしちゃいますが、次にさっさとこっちを使います)。
      ほんとうに今年は、自我の戦略ってコースがいうとおりだなと見た年でした。

      どうぞよいお年をお迎えください(^ ^)

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