『Journey through the Text of ACIM』(65)-7章5節 赦しと癒し②

2020-12-14

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章5節 赦しと癒しの続き。厳密にいうと、この節は赦しと癒しに分かれていて、赦しの項の続き。

ここでは「赦し」という概念はまだ出てきていないが、そのベースとなる姿勢や考えが説明されている。前回は主に、私たちの共通性、平等性、一体性というのがテーマだった(自我の発想である競争や個別の利益という考えに警戒せよ)。

今回は、学びにおける他者の必要性に主眼が置かれている…ように思う。

他者が投影引き戻しのチャンスをくれる

兄弟が正気でない行動をするとき、彼はあなたに、彼を祝福する機会を差し出している。」(T-7.VII.2:1) 

出会いとはすべからく神聖なものだ。

「出会いが神聖なのはお互いに投影した罪悪感を認識する機会を差し出してくれるからです。」とワプニック先生。そして続けて「人生において他の人の存在がなければ、罪悪感を選んだ心の決定に近づくことはできなかったでしょう。その機会は私たちが兄弟に差し出し、また兄弟から受け取る祝福なのです。」とおっしゃっている。

彼の必要はあなたの必要である。あなたが彼に差し出せる祝福を、あなた自身が必要としている。それを与えること以外に、あなたがそれを所有する方法はない。これは神の法則であり、そこに例外はない。」(T-7.VII.2:2-5) 

誰かが腹立たしく忌まわしく思える時。それは、実は、罪を犯した(と思っている)自分を責めているからなのだ。

ただそれがあまりにも辛くて自分でも気づかないうちに投影して、「やつがとんでもないことをしてくれやがった」というふうに見えてしまう。

ワプニック先生は、「『想念はその源を離れない』や『投影が知覚を作り出す』という原理を思してください。」と述べられ、また「内界の知覚が私たちの外界の知覚を決定し、それが次に同一視している思考システムを強化します。」とも説明なさっている。

投影していることは自分では気づけない。

それに気づけるのは、自分が誰かや何かに本来ならありえないネガティブな感情を感じた時。その時が投影の引き戻しのチャンスなのだ。それを与えてくれるのが、出会いなのだ。

自分の中にキリストを見るには

あなたが拒否するものとは、あなたに欠けているものである。それ自体が欠落しているからではなく、あなたがそれを他者の中に認めるのを拒んだために、あなた自身の中にそれを自覚しないからである。」(T-7.VII.2:6) 

「私たちが他者の中にあるキリストを否定するなら、私たちにはキリストが欠けているという信念を強め、他者への攻撃がこれを確かなものにします。」(ワプニック先生)

あなたは神の祝福を必要としているのではない。なぜなら、それは永遠にあなたのものだからである。しかし、あなたは自分自身からの祝福は必要としている。自我が描き出すあなたの姿は、困窮し、愛がなく、傷つきやすいものである。あなたはこのようなものを愛することはできない。」(T-7.VII.3:1-3) 

真理においてはそうだが、「逆説的に言えば、真の愛を前にすれば個として存在しえないので、『困窮し、愛がなく、傷つきやすい』自己像であっても私たちはそれを愛すのです。」とワプニック先生。自我が与えてくれる個としてのアイデンティティはそれほど執着したいものなのだ。

その後に、「この狂気をありのままに見ることが不可欠です。」と述べられている。これはACIMにおける中心的かつ反復的なテーマだ。

自分は誰なのかー。それを思い出す方法は、他者の中にキリストを見ることだ。

聖霊か自我か、自分がどちらの教師を選んでいるかー。それを知るには、自分の関係性の捉え方を吟味することだ。自分は同質性と差異、共通の利益と個々の利益、どちらを重んじているか。

まず今の自分がしていることを知ることが修正の第一歩だ。

兄弟は鏡

知覚が続いている間は、あなたの兄弟は、あなたに自分自身の姿を映し出してくれる鏡である。」(T-7.VII.3:9) 

他者は自分の鏡…。

他者を何かで非難するなら、実はそのことで自分を非難している。私たちはひとつなのだから…という。

「私たちが他者に見るすべては、自分の投影や鏡だと理解できると、心の攻撃的な考えとひどい気持ちに関連があるとわかります。またと投影を手放すとどんなに素晴らしい気持ちになるかもわかります。」(ワプニック先生)

誰かを除外しているとき自分が除外されている

あなたの贈り物を、一なる子に与えずにおいてはならない。さもなければ、あなたは神に対し自分自身を与えずにおくことになる!」(T-7.Ⅸ.1:3) 

神の国のどの部分でもあなた自身から除外するなら、あなたは全一ではなくなる。」(T-7.IX. 4:3) 

私たちは、誰かを除外して神に到達することはできない。

「学習者は例えば『人は無関係だ』『どうせ赦すべき誰かなんてどこにもいない』などと言って、コースの形而上学を誤用することで自分の罪悪感を守ろうとする誘惑に気を付けなくてはなりません。確かにここに誰もいないのは本当ですが、そう実際信じているなら言わずもがなです。この観点で言えば、自分を肉体だと思っているかぎり人間関係は極めて重要です。」(ワプニック先生)

「(攻撃を正当化する方法としての投影と怒りという)このダイナミズムが表面化しないかぎり心は変わりようがありません。」(同)

ちょこっと感想

またまた長々書いてしまった。

「他の人は自分の鏡」とは心理学でもよく聞く言葉だけど、ちゃんとACIMテキストにも書いてあるんだなぁ、としみじみ。

ワプニック先生の解説書で繰り返されているおかげか、「投影-怒り」ラインが使いにくくなってしまった。感情的になるのは同じだけど、これは自分発だったと思い出すのが前より早くなってきたような。

でも、私は人とあまり触れあっていないから嫌な人にも出会わないんだ。理屈は浸透しつつあるものの、身に自我ジガをたくさんくっつけたままでイガイガしていそうだ、恥ずかしい。

「他の人は自分の鏡」…、で、鏡そのものから逃げ回っているかのような…。あ゛あ゛…。

それではどこにも行きつけない。ぐるぐる…ぐるぐる…

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