『Journey through the Text of ACIM』(62)-7章4節 自我の戦略①

2020-12-06

わが“旅”のようす

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。“わが旅”は7章後半をてくてく。そして“一里塚”でもないところで、ぼーっと立ち止まっていた(『Journey through the Text of ACIM』-“旅”をふりかえる)。来し方を見つつ、まだ先は長いんだな~と。

しかし、これはどれだけゆっくり進んでもいいんだし、別にやってもやらなくてもいいことだ。途中まで登って降りてこれなくなったなんてこともない(いやあるか)。なりゆきまかせでいこう。

このブログは「奇跡講座」をタイトルに含みながらもワークブックが終わってしまってからは、他に奇跡講座の内容に関することはあまり書けてないのだから、せめてこれくらい続けていきたいと思う…。

さて、7章4節は「自我の戦略」。

また「自我の戦略」かと思ったが、これは「贖罪の原理」や「贖罪の原理に対する自我の恐れ」「赦し」などと同様、ACIMの中心的概念だからくりかえし出てくるのは自然なのだ。

同じ概念を少しずつ見方や表現を換えながらくりかえすからこそ、“シンフォニー”と称されている所以だ。本節は解説書で5p半程度で比較的短いが、2分割することにした。

自分なりのまとめ

これまでのざっくりとしたあらすじ。

自我は神との分離を本当だとする想念だ。

神と私たちはひとつだし神が創造した心は不変で変わりはしない。

…が、「分離した」と思った錯覚の瞬間、私たちは自我を支持、その想念と一体化した。そして、その後、この世&肉体という幻想を作った…というおなじみの話。そしてそのまま今ここに至る。

自我は私たちが心でなした選択に気づかれたくはない。なぜなら、選び直しの可能性を気づかせたくはないから。選び直して自我を選ばない選択をされてしまったら、自我は消滅してしまうのだから。

生き残りをかけ再選択するところ(心)に意識を向けさせない戦略。

これが、自我のマインドレス化戦略だ。

私たちが真の心に戻るためには、心があると認識することが第一歩だ(ACIMでいう「心」とは、この世で用いられている「心」という語とは異なり、頭脳ではなく時間と空間の世界の外にある心をさしている)。

だが、自我と一体化し続けるままの私たちは、真の自己の記憶から自分を隔てる偽りの自己を選んでいる。

心の真の力

さてここから7章4節の内容へ。

あなたの思考がその力のゆえにこれをもたらしたのだが、あなたを救うことができるのも、あなたの思考である。なぜなら、その力はあなたが作り出したものではないからである。自分の思考を自分で選ぶ通りに方向づけることができるというあなたの能力も、その力の一部である。もしあなたが自分にそれができると信じていないとしたら、あなたは自分の思考の力を否定したのであり、したがって、あなたの信念においてそれを無力にしてしまったのである。」(T-7.VI.2:5-7) 

これは「心の真の力」について書かれたもので、ACIMの中心テーマだ。初めの方の章でこのテーマがくりかえし出てくる。それによりこのテーマの重要性が強調されているのだという。

「心は、自我が私たちの家と定めた牢獄から脱するための唯一の希望」だという。

そして、「ACIMを含め、この世の何かあるいは誰かに希望を抱くことは、問題及びその答えの源である心の決定力に私たちを接近させないようにする自我の防衛の一部です。」(ワプニック先生)という。

自我の矛盾

自分を存続させるための自我の創意工夫は巧妙きわまりないが、それは、自我が否定している心の力そのものを起源としている。このことは、自我は自分を存続させているものを攻撃している、ということを意味する。これは極度の不安をもたらす。」(T-7.VI.3:1-2) 

自我は、自分の生存のために、自分の生存に全面的に敵対している唯一の源に頼っている。その源の力を知覚することを恐れているため、自我はそれを軽んじることを余儀なくされている。」(T-7.VI.3:5-6) 

自我は、自我の存在を信じる信念(心の力)に依存している。

しかし一方で、選び直しができないようあたかも心がないかのよう私たちに意識を向けさせないようにさせ、心がもつ力を無効化している。

つまり、自我と自我が作った世界は、自らの源を軽んじているのだという。

たとえば…としてワプニック先生は、ほとんどの科学者が「観察しうる、操作も制御もしうるものだけを研究対象としていること」を挙げられ、心はこうした対象を超越したものだと説明されている。

私たちが自分を肉体(心は脳に含まれる器官)と捉えているならば、心については気づけないままとなる。

不安の正体

これは自我自身の生存を脅かす。このような状況を、自我は耐え難いと見なしている。論理的であり続けるが依然として狂っている自我は、この完全に狂ったジレンマを完全に狂った方法で解決する。」(T-7.VI.3:7-8) 

その脅威をあなたの上に投影してあなたを存在しないものと知覚することにより、自我は自分の存在を、脅かされていないものと知覚するのである。そうすると、もしあなたが自我に与するなら、あなたは絶対に自分自身の安全を知らないままとなり、それにより自我の継続が確保されることになる。」(T-7.VI.3:9-10) 

イエスは自我を擬人化しているが、自我とは分離したと思い込んでいる神の子の想念にすぎないことを、ワプニック先生は注記なさっている。

自我に従えば、私たちの行く末は袋小路だ。

イエスはまさに私たちの、混乱、不安のことを話している。

その不安の正体は、まずひとつは、神が私たちを滅ぼてしまうという思い込み、もう一つは私たち自身が心に戻れば、恐怖におののいた自己を選ばない選択をして自分自身を絶滅させてしまうのではないかという恐怖なのだという。

そして、それを自分の中で持ちこたえられないため、外の世界へと投影、恐ろしいものとして体験することになる。

問題の本当の在り処と中身

外にあるかのように見える恐怖の対象は「問題ではない」とワプニック先生。

問題は、聖霊と自我の間の内なる葛藤であり、もっと掘り下げるならば、それは葛藤などではなく、ただ自我との誤った同一化なのだという。葛藤を外にあるかのように見ること、それ自体が分離というしくみを維持している。

真の問題は、偽りの自己であり、その恐怖なのだ。

私たちが心に戻り、赦し、愛、一体性を選べば、自我が消えてしまう…という思い込み。

私たちが、心に戻り自我ではなく聖霊の見方を選択すれば、問題や恐怖はそもそもないものとなる。

ちょこっと感想

こうして解説本の自分なりの要約を書くことと、心を変えることはまったくの別物だ。

まとめる作業は、心ではなく頭のほうの作業だ。

少し理解が進んだように思っても、それは錯覚。

私が、感情と一緒くたになって自分にひっついている観念をひとつずつ手放す作業をしなければ、いっこうにACIMの学びは進まない。

そして、自分では自分の姿が見られないから、そこには他者の存在が不可欠なのだ。

でも頭で学ぶことにもメリットはある。

イエスのいわんとすることをワプニック先生が人間の立場で説明してくれると全体像がほんのり見えてきて、やっぱり聖霊の見方のほうが正しい(破綻がない)と思える。できないなりにもこっちをこつこつやっていこうかな、と思える。

まだまだ、ほぼほぼ自我だから怖いけど。

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