『Journey through the Text of ACIM』(60)-7章3節 贖罪に対する自我の恐れ②

2020-11-06

ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章3節、「贖罪に対する自我の恐れ」の続き。コースの目的のひとつは、自我の戦略を明らかにして自我の正当性に私たちが疑問を抱くことができるようにすること。もちろん、それは自我にとっては恐怖でしかない。

聖霊の翻訳機能

法則は、役立つものであるためには伝達されなければならない。要するに、異なった言語を話す者たちのためにそれらは翻訳されなければならない。ただし、良き翻訳者は翻訳するものの形を変更しなければならないとはいえ、決してその意味を変えることはしない。

実のところ、翻訳者の目的のすべては、もとの意味を保持するために形を変えることにある。神の法則を理解しない者たちにとって、聖霊は神の法則の翻訳者である。」(T-7.II.4:1-5) 

この節の中盤では、翻訳者としての聖霊の機能が述べられている。赦しの中味は愛であり、聖霊はこれを私たちに理解できる形で示す。

ポイントは、「意味を伝えることが重要、そのために形を変えうる」という点だ。

ワプニック先生はここで2章から同様の意味を持つ箇所を引用されている。

贖罪の価値は、それが表現される様態にあるのではない。実際、それが真実に用いられるなら、必然的に、受け手にとって最も助けになるどんな方法ででも表現される。このことが意味しているのは、最大の効果をあげるには、奇跡は受け手が恐れをもたずに理解できる言語で表現されなければならない、ということである。」(T-2.Ⅳ.5:1-3)

私たちには翻訳者、聖霊の助けが必要

あなたはこれを自分自身で行うことはできない。なぜなら、葛藤ある心はひとつの意味に忠実ではいられず、したがって、形を保存するために意味を変えてしまうからである。(中略)聖霊のメッセージの意味は常に同じであり、『重要なのは意味だけである』というものである。」(T-7.II.4:6–5:4) 

ここでワプニック先生は、意味が重要の例として「特別な関係」を取りあげ、聖霊は関係そのものを奪うことはせずに関係性の中味を変容させる、とおっしゃっている。

翻訳あるいは伝達で重要なポイントは、「私たちを心のレベルでひとつにする」という聖霊の意義に寄与するものか否かという点だ。

コースのシンプルさと鍵

聖霊は一なるレッスンを教えており、それをあらゆる状況であらゆる個人に適用する。葛藤から自由なので、聖霊はすべての努力とすべての成果を最大化する。」(T-7.III.1:1-2) 

イエスは「コースはシンプル」だと教えているが、その根拠がここにあるという。

すなわち、問題はひとつ、解決策もひとつ(贖罪の原理)、レッスンもひとつ(赦し)だから、と(明記されていないが、問題は「神から分離した」と勘違いしたこと、解決策はそれに贖罪の原理を適用すること、レッスンは赦し、なのかな)。

「問題はあらゆる形態で来ますが、赦しのプロセスは同じだからです。」

「しかし、私たちは赦しを選択する力は自分たちのものだと学ばなくてはなりません。」(ワプニック先生)

実は自分は選択肢と選択する力を持っていると気づくことが、このシンプルな道の鍵なのだ。

聖霊は、自我が『学んだ』ことの反対を教えるために、自我が作り出したものを使うことをあなたに教える。学んだことの種類も、その学びに用いられた特定の能力も、同様に問題にならない。あなたはただ学ぶ努力をすればよいだけである。」(T-7.Ⅳ.3:3-5) 

赦しというひとつの目標がばらばらになってしまったものを統べるのだという。

投影における自我の算段

神の法則の歪曲版を使って、自我は心の本当の目的をくじくためだけに、心の力を活用する。あなたの心から他の心へと葛藤を投影し、その問題は除去したと、あなたに信じ込ませようとする。」(T-7.VIII.2:5-6) 

これもくりかえしになるが、自我は罪悪感をリアルにして他者に投影することで、もう自分は安全だ、神は私たちを滅ぼしにくることはないと言う。

しかし実際には、朽ちる運命にある肉体は安全どころではない。私たちがそれに気づいた頃には、自我の約束も、自分が自らの決断によって自我を選んだことも忘れてしまっている。

私たちが改めてその不完全性に疑問を抱き始めると、自我はその疑問を消してしまう(参照:T-4.V:4とあり)。

投影は、私たちの罪を消すという働きだけではなく、自らの不幸の責任は外にある、しかもたいていは他者の肉体にあるといい、この点で攻撃と同じ思考回路だという。

投影は常に自分の願望を他人の中に見る。あなたが自分自身を神から分離させることを選ぶなら、それと同じことを他人もあなたに対して行っていると、あなたは考えるようになる。」(T-7.VII.9.4-5) 

「投影には、私たちの秘密の願いがあります。」とワプニック先生。それは、つまり分離を保ちつつ、その責任は他者になすりつけることだ。

「投影は、私たちが感じる神への裏切りの代償を他者に支払わせながら、自我の分離の“ケーキ”を自分のものにして楽しめるようにします。」(同)

赦しという救済策

あなたは神の意志そのものである。他のいかなるものもあなたの意志として受け入れてはならない。そのようなことをすれば、あなたは自分の本性を否定していることになる。これを否定するなら、あなたは自分が攻撃されたと信じ、攻撃することになる。しかし、自分の中に神の愛を見るなら、あなたはそれをあらゆるところに見るようになるだろう。なぜなら、それは確かにあらゆるところにあるからである。すべての者の中に神の豊かさを見なさい。そうすれば、あなたは自分も彼らと共に神の中に居ることを知るようになるだろう。」(T-7.VII.10:1-5)

兄弟の中に自我を超えたものを見ることが、自我の欠乏の信念を聖霊の豊かさの教えへと転換するのに役立つ。

「赦しは、私たちが兄弟や自らに掛けた罪悪感のベールを引き上げる、この狂気に対するイエスの優しい療法なのです。」

ちょこっと感想

聖霊の翻訳について書かれたところが、なるほど、と思った

重要なのは意味だけで、その意味を重んじるがために形を変えることは厭わない。

形は変えていようとも「私たちを心のレベルでひとつにする」という翻訳の元々の目的に合うものか否かが大事だというところ。

学んで知ったと思うことを誰かに伝えるような場合、この翻訳の心得は大事かもしれない。

自分の中にどこかしら裁きの想念があると、気づかずに知識や経験で相手を切りつけてしまっていることがある。

自分にコンプレックスがあるようなときはとくに。だから覚えておこう。

自我の恐れはよくわかる。自分がそっちと馴染んているから。

でもかなり正体を暴いてもらったので、さすがに盲信はできなくなってきた。

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