『Journey through the Text of ACIM』(59)-7章3節 贖罪に対する自我の恐れ①

2020-11-05

ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章3節、贖罪に対する自我の恐れについて。

「自我の恐れ」というのもたびたび出てくるなと思っていたが、前節同様このテーマに関するこの節の記述を集約しているのだとしたら毎回も出てくるのも不思議ではない。長めの節なので分割することに。相変わらず、全部重要な気がしてまとめ方がわからない。

自我と恐れ、そして私たち

この7章には自我の戦略について最も詳しい説明があるという。くりかえし述べられてきたことだが、ACIMを理解するには、戦略の根っこにある自我の恐れを理解することが必要不可欠だ。

最初の引用文は次の文。

神の意味そのものであるあなたが、どうして自分自身をそこから離れていると知覚できるのだろう。」(T-7.III.2:4)

その答えは、私たちの本性は心(正しい心)のだけにあるが、私たちは自我の戦略によってマインドレスな状態にあり、心そのものから離れてしまっているからだという。心から離れてしまった私たちは、自分の本性にアクセスしづらい状況にあるのだ。

イエスが話しかけている「あなた」は、私たちがこの世にいると思っている肉体的な自己ではなく「決断の主体」を指している。

あなたは自分自身を実在しないものとして経験することによってのみ、自分の意味から分離したものとして自分自身を見ることができる。これが、自我が狂っている理由である。自我はあなたがあなた自身ではないと教えているのである。」(T-7.III.2:5-6)

この文章の前半が、自我の考えに導かれた私たちが今この世にある状態だ。

一方、贖罪の原理は、「分離は一度も起こらなかった。肉体も肉体を作った想念も存在しない」という。

私たちの肉体は存在しないが、神の子としての私たちは実在する。

改めて自我の考えと贖罪の原理は真逆だと確認できる。

自我に忠誠を尽くすことであなたの心が統一されることはあり得ない。なぜなら、心は自我に属してはいないからである。」(T-7.III.2:12)

私たちが最初に自我を選んだ時、正しい心の部分を埋め「決断の主体」であることを止めてしまった。そして今も自我と同一化している。

だが、自我にとっての『裏切り者』は、平安に忠実である。したがって、自我の『敵』はあなたの友である。」(T-7.III.2:13-14)

私たちにとって真の友となるのは、贖罪を選ぶ「決断の主体」の力だ。ただ、自我と一体化しているなら判断も自我とひとつだ。だからACIMを学びつつ恐れるという事態に陥る。

「私たちがイエスとコースを恐れているのは、イエスならびにコースが自我を選ばないという選択が可能な『決断の主体』たる自己を呼び起こすからです。」(ワプニック先生)

自我は知るわけにはいかない、知られてはならない

自我は何も知るわけにはいかないのである。智識は全的なものであり、自我は全体性を信じない。(中略)一切を有する者が自我を望むことはない。だとすれば、自我を作り出した存在自身が、自我を望んでいないということになる。したがって、もし自我を作り出した心がそれ自身を知ったなら、自我が直面することになる唯一の決断は、拒絶のみである。」(T-7.VI.4:1-11)

自我は智識を恐れている。智識という全的なものの中では生きられないからだ。

自我は「決断の主体」が自我を選んでいるからこそ生きながらえていることを知っている。そしていつか自我に対する信念を引き上げてしまうのではないかと恐れている。

そのため自我は私たちが「決断の主体」がある心に近づかないよう、世界と肉体に関心を向けて固着させようと躍起になっている。

自我と一体化した私たちが共有する夢

したがって、彼らはさまざまな形象を作り上げ、それらを価値なきものと知覚し、その無価値性を理由にそれらを攻撃する。」(T-7.VI.11:3) 

神からの分離が起こったと思い込み、その“逃げ場”として作られたこの世には、元の想念(罪悪感、恐怖)が投影されているので、そのイメージで溢れているのだという。それを私たちは他者への投影で乗り切ってきた。

今では自分が最初のイメージの作り手であることさえ忘れている。

「私たちは現実のように見える影の世界に住んでいて、『分離を心の内ではなく外に見て、その責任は認めず人のせいにして、神が私たちではなくその人たちを滅ぼすようにしましょう』という同じ夢を共有しています。」(ワプニック先生)という。

自我の恐れの根幹は「無」

それが、自我の世界のすべてである。つまり無である。」(T-7.VI.11:4-5) 

自我は「無」と言われることを嫌う。これこそが自我の恐れの源なのだという。これこそばれてはいけない自我の正体だ。

それには何の意味もない。それは存在しない。それを理解しようとしてはならない。なぜなら、あなたがそうしようとするならば、それが理解可能なものであって、賞美され、愛されることが可能なものだと、あなたが信じていることになるからである。それがその存在を正当化することになるが、それは正当化できるものではない。無意味なものを意味あるものにすることはできない。」(T-7.VI.11:6-10) 

「イエスは、私たちがすでに行っていることを述べています。」とワプニック先生。「丁寧に読めば、イエスは私たちが存在しておらず、宿っていると思っている肉体や住んでいると思っている世界も、重要だと思えていた問題も存在しないのだと言っていることがわかります。」

こうしたことは、私たちの信念、体験と真逆だからこそ、イエスは何度もくりかえし理解を助けているのだという。

心の根本的な法則

投影がなければ怒りはあり得ないと述べたが、延長がなければ愛はあり得ないということも、また真実である。これらが、心の根本的な法則、すなわち、常に作動している法則を反映する。」(T-7.VIII.1:1-2)

したがって、あなたがこの心の法則をどのように適用することを選ぶかで、それは豊かさを生み出すことにも、欠乏を生み出すことにもなる。」(T-7.VIII.1:9)

私たちは、どちらの心の法則を選ぶのか。

これは「与えるものを受け取る」という原理について言及している。

自我を選び、罪悪感を投影するなら、私たちのなかで分離と罪悪感を強化する。

聖霊を選び、愛を延長するなら、愛が強化される。この世で、愛の延長は赦しとなる。

心の法則は、すでにあって常に働いているもの。どちらを選んでも選んだ者にとっては実在する。

欠乏の法則と剥奪感の法則

自我は私たちを「私たちには何かが欠けている」という欠乏の自己認識から動かそうとする。

しかし本当に欠けているのは、神の愛だ。

欠乏の法則は、「欠けているのは、兄弟が奪ったからだよ」という自我の声で、「剥奪感の法則」となる。

「何かが欠けている」と感じるのは、自分サイドに「盗んだ」という想念があるからで、剥奪感は欠乏の信念の投影だ。

「私たちは、決断の主体の選択によって、私たちがリアルにしたものを、延長あるいは投影し、豊かさあるいは欠乏を経験することになります。」(ワプニック先生)

ちょこっと感想

…ああ、またまた長文になってしまった。

「自我の恐れ」には詳しくなったけれど、それを観念として扱っているだけでは、堂々巡りだ。

『神の使者』を読んでいた時には、こんな大ごとになるとは思っていなかった(求められていることの難しさが少しずつわかってきた)。

平生比較的穏やかに過ごしているけれど、それが抑圧によるものなのか、自分ではわからない。

自我の価値観とACIMの価値観がごっちゃで、しかも自分がなんでこんなことをしているのか、思い出せない。

いろんなことに鈍感になっているのか。

このなんとなくふらふらしながら釣り合っているような状態がどう均衡を破るのかな。ぜんぜん今回の感想ではないか(~_~;)

(長文、お付き合いくださいまして、どうもありがとうございます(*ᴗˬᴗ)⁾⁾)

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