『Journey through the Text of ACIM』(57)-7章1節 神の一体性

2020-11-03

真理を描写する二元的な言葉

ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章1節、神の一体性について。

神とその被造物たちの創造力に限界はないが、両者は互恵的な関係にあるわけではない。神があなたと完全に親交コミュニケーションをしているのと同じように、あなたは神と完全に親交をしている。(中略)だが、創造においては、あなたと神が互恵的な関係にあるのではない。神はあなたを創造したが、あなたは神を創造しなかったからである。」(T-7.I.1:1-4)

最初の引用文はこれ。

「これらは、二元性を完全に超越した真理を表現するための二元的な言葉です。」とワプニック先生。

神の子が源から分離して外なる国を打ち立てたと信じた時、自我は「我こそ神だ」と宣言した。イエスの「神はあなたを創造したが、あなたは神を創造しなかった」という言葉は、その自我の分離と自律という傲慢な思考の核心を取り消すものだという。

一元的なものを言葉で二元的に象徴的に表現している、という解説は、この節の別のところでもくりかえし出てくる。

「本当は、天国には神もキリストもいませんし、創造主も被造物もありません。くりかえしになりますが、こうした二元的用語は二元的状態にある私たちに語りかけるもので、あらゆる象徴を超越して在る天国の完璧な一体性を象徴的に表現することだけを意図しています。」(ワプニック先生)

このようにしてのみ、すべての創造力が外に向かって延長することができる。神の達成はあなたの達成とは異なるが、あなたのそれは神のそれと同質である。神は一なる子を創造した。そしてあなたはそれを増大させる。」(T-7.I.2:4-6)

神の達成はあなたの達成とは異なる」とは、「神はあなたを創造したが、あなたは神を創造しなかった」(T-7.I.1:4)と同じ意味だという。

そしてここでも「増大」とは量的な意味合いは持たない比喩的な表現だという点に留意すべしとある。

天国の一体性、そのこの世での反映が赦しと癒し

創造することは、愛することである。愛は封じ込めておけないという単純な理由により、外に向かって延長する。それには限界がないのでとどまることがない。それは永遠に創造するが、時間の中で創造するのではない。神は常に存在してきたので、神の被造物たちも常に存在してきた。あなたは神が創造するのと同じようにしか創造できないので、あなたの被造物たちも常に存在してきた。神はあなたを永遠なるものとして創造したので、永遠はあなたのものである。」(T-7.I.3.3-9)

これはまた別の言い方で天国の一体性を表わすものだという。

自我が誕生した時、夢の中では「二つであること」という状態が確立した。そこから無数に断片化を続けてきた。

天国の一体性をこの世のレベルで理解することはできない。しかしここ二元性の世界では、それは赦しと癒しを通して反映されるという。

「愛の延長は、赦すという決断を通して肉体の世界で表現されます。その決断において、私たちは心の中の聖霊の臨在への障壁を取り除き、聖霊からの愛が私たちを通して流れ出るようにします。これが癒しの意味です。愛の延長は、特別な関係という自我の防衛の核心、『別々の利益』への信念を取り消すのです。」(ワプニック先生)

ACIMの「喜び」の感覚とは

あなたが自分が何であると信じるかによって、あなたの贈り物が決まる。そして神がご自身を延長させてあなたとすることによりあなたを創造したのなら、あなたにできるのは神がした通りにあなた自身を延長させることだけである。喜びと永遠は不可分であるため、喜びだけが永遠に増大する。」(T-7.I.5:2-3)

ここでは、ACIMで語られる「喜び」という言葉について短い説明がある。

「この世には表現できるふさわしい言葉はありませんが」と前置きしつつ、それはあえて言えば「欲しいものを手に入れた時に感じられる幸福感のようなもの」だと説明されている。

「天国では喜びはずっと継続する状態であり、神の国の永遠性を表わす別の言葉、創造、延長とも言い表せます。」

『最後の一歩』も『最初の創造』も時間ではない

すでに述べたように、智識に再び目覚めるための最後の一歩は神によって踏み出される。これは真実だが、言葉は象徴であるから、これを言葉で説明するのは難しい。そして、真実なるものは説明を必要としない。しかし聖霊は、無益なものを有用なものへ、無意味なものを意味あるものへ、そして一時的なるものを時間を超越したものへと翻訳する任務を担っている。したがって、聖霊はこの最後の一歩について、いくらかのことは教えられる。」(T-7.I.6:3-6)

この「最後の一歩」もまたイエスの言葉にもあるとおり、事実のレベルではなく象徴としての表現だという。

神が最後に何かをしたりはしない。神は最初に創造し、それが永遠の創造だったからである。神について用いられる『最初』という言葉は、時間の概念ではないということが理解されなければならない。」(T-7.I.7:3-4)

ワプニック先生は、「『最初』という言葉は、幻想上の時間的な次元でしか意味を持たないので、それが時間の概念ではないとすれば、そもそも無意味です。」と述べ、「ACIMを読むうえで有益なルールは、二元的なものは何でも象徴的に理解されるべきだということです。」と明言されている。

さらに「神のことを私たちに関係する人として話すのは、『神』と『私たち』として二元的に話すことです。時空間を反映した言葉も象徴としてのみ捉える必要があります。神は象徴的なものではありません。私たちには象徴を通して間接的にしか知りえない事実(fact)なのです。」と述べられている。

したがって、神が踏み出すことになる『最後の一歩』とは、はじめも、今も、これからも、常しえに真実であり続ける。時間を超越したものは常にそこに存在する。その実存は永遠に不変だからである。それは永遠に増大するものとして創造されたので、増大することによって変化しない。」(T-7.I.7:8-10)

ここでも、「増大」は量ではなく、愛の豊かさを象徴するものとして用いられている。

また後の方では、私たちには「天国の一体性」というものがわからないのでテキストには記述が少ないが、一体性のこの世での反映に関しては多くの記述があると説明がある。

ちょこっと感想

「真理を表現するための二元的な言葉」だとされた部分は、例にあげたところだけでなく「神、キリスト、被造物も本当はひとつ」「父も子も聖霊も単なる象徴」など他にも記述があった。

天国の一体性についての話は、言葉を尽くされても象徴を介して間接的に触れることしかできない。人は知らない概念を扱えない。なんとなくわかる気もするけど腑落ちはしない。

延長って?増大って?増大するのに不変てー?

「最初」なのにそれに続く二番目はなくて常在ってー?

真理に忠実になんて思うと、何にも話せない。対象物など本当はないのだから。言葉もまた真理からほど遠い。

やっぱりACIMの“梯子の下段”にいるのだとしたら、そこから見える景色、感じるところから始めないと“実用的”ではないなと思う。

ACIMの“聖霊語”は聖霊の視点からだからやっぱり難しい。ACIMはたくさんの言葉で説明してくれているけれど、もっとニンゲン寄りの説明が欲しい。ワプニック先生はそれをやってくれている。具体的にこれは象徴だと言ってもらえてとてもわかりやすくなった。

それでもその視座に立たなければ、本当に理解しきれるものではないと思う。真理は私にも垣間見えているものなのか…。

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