『Journey through the Text of ACIM』(54)-6章6節 聖霊のレッスン②

2020-10-11

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、6章6節のざっくりまとめ。聖霊の第2のレッスンについて。

B 平安をもつためには、平安を学べるよう平安を教えなさい。

聖霊の第2のレッスンは、自我の原理「分離をもつためには、分離を学べるように攻撃を教えなさい。」を修正するものだという。

第1のレッスンでは、まず心へと立ち返らせ、第2のレッスンでは、私たちが本心から望んでいることを明らかにし、自我の葛藤を選んできたこれまでの決断を逆転させて聖霊の平安を選ぶ決断ができるようにする。

テキストⅤ-Bの3段落目、8段落目、9段落目から引用があり、各々に解説が加えられている。

逆転のプロセス、すなわち取り消しのプロセスにおける最初のステップは、『獲得する』という概念を取り消すことである。それゆえに、聖霊の最初のレッスンは、『所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい』であった。これは一時的に葛藤を増大させがちであると私は述べたが、今この点をさらに明確にできる。この時点では、『所有すること』と『在ること』との同一性はまだ知覚されていない。」(T-6.V-B.3:1-4)

「私たちが『所有すること』と『在ること』が同じだと認識できていたら、父の家を出ることはなかったでしょう。」とワプニック先生。

(父の家では)私たちは神の愛であり神の愛を所有している。愛は私たちが手に入れなければならないものではない。

だが、この世では私たちは愛を所有するために何かしなければならないと思い込んでいる。ここが自我の分離と罪の思考システムの核心だという。

そう知覚されるまでは、所有すること与えることの反対であるかに見える。したがって、最初のレッスンは矛盾を学んでいるように見えるが、それは葛藤のある心によって学ばれているからである。これは相反する動機があることを意味する。このため、そのレッスンはまだ一貫して学ばれることがない。」(T-6.V-B.3:5-7)

「私たちは今も揺れています。赦しとは、良い日と悪い日、幸せな時と辛い時があるプロセスだと常に覚えておく必要があります。」とワプニック先生。

奇跡を選ぶのがたやすく何事も個人的には受け取らない時もあれば、どんなことでも自我レベルで受け取ってしまうこともある。

さらに、学ぶ者の心は自らの葛藤を投影するので、他者の心の中に一貫性を知覚せず、それにより、学ぶ者は他者の動機について疑り深くなる。」(T-6.V-B.3:8)

自分の心の葛藤を身の回りの人に投影してしまうので、接する人たちの心が一貫性のないものに見え、疑り深くなる。

「彼らは、私たち自身の罪深いイメージと似姿から作られた、私たち自身だからです。」(同)

他者が行ったことをどう受け取るかは私たちの責任となる。

これが、最初のレッスンの習得が多くの意味で最も難しいことの真の理由である。あなたは依然として自分自身の中の自我を強く自覚し、他者においても主として自我に応答しているというのに、そのあなたが、どちらの自我に対してもあなた自身が信じていることが真実でないかのように対応せよと、教わっているのである。」(T-6.V-B.3:9-10)

「このコースは、私たちが拠って立つ、正に土台だと思っている、分離、二元性、特別性を根底から崩すものだということを心に留めておいてください。」(同)

「個としての私たちを支えているのは、特別な憎しみと特別な愛に内在する攻撃性であり、だからこそ防衛しないこのコースは脅威になるのです。」(同)

予備的なステップから根本的な変化へ

これは依然として予備的なステップである。所有すること在ることがまだ同等に扱われていないからである。…(略)…一心に欲することは創造することであり、神ご自身があなたを創造者として創造したのなら、創造することが難しいはずがない。」(T-6.V-B.8)

依然として、自我と聖霊の間を行ったり来たりしているので、第2のレッスンも予備的なステップだとされている。

「心の中で起こる根本的な変化だけが重要なのです。他には何もないからこそ私たちはイエスのコースに抵抗するのです。」とワプニック先生は述べておられる。

「この聖霊のレッスンの目的が、いやそれどころかACIMの目的自体が、私たちを心に戻すことなのです。この変化は、私たちが本当に望んでいるものは、贖罪の平和だと答えが得られた時にもたらされるものです。」

それならば、第2のステップは依然として知覚的なものである。とはいえ、それは神の知り方を反映する統一された知覚へ向かう大いなる一歩である。あなたがこの一歩を踏み出し、この方向に進み続けるとき、あなたは自分の思考体系の中心へと押し進むことになり、そこで根本的な変化が起こる。」(T-6.V-B.9:1-2)

「私たちはゆっくり忍耐強く旅をしています。自分が消滅してしまう恐怖がまだ強いからです。」

それでも一歩一歩、贖罪を受け入れるという決断へと近づく。

ちょこっと感想

この部分はページがたくさん割かれているわけではなかったが、すべて重要な気がしてきて、まとめるということがいつも以上にしづらかった。

聖霊のレッスン、概念の説明にとどまらず、学習していくなら必ず必要な変化を迫られている気がして(実際迫られているんだろう)、進まない。

私はACIMで語られる世界を、こことは別の、つまり二元性の世界の中の“対象”として、美しいジグソーパズルのように憧れていたのかも。

自分の心を変えるのが必要とは読んで知ってはいたけれど、迫ってこられると戸惑う。“自分”に対する執着がまだまだ強い。その自分を手放す覚悟が持てていない。

解説書を読むのと、これを生きるのとはまったく別物だ。覚悟が持てるかー。

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