『Journey through the Text of ACIM』(53)-6章6節 聖霊のレッスン①

2020-10-10

聖霊のレッスン

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、6章6節のざっくりまとめ。この部分はテキスト、6-Ⅴ節の聖霊のレッスンに対応している。

ACIMに限らず霊性の道を歩む人が陥りがちな学習上のリスクは、救済が「一瞬のうちに」起こると教えられ、時間的にも瞬間的なものだと思い込んでしまうことだという。

これは幻想上の時空についての言及ではない。

私たちが経験しているこの時空間においては、自己を失う恐れがあるためことはそう簡単ではない。自分はこういう存在だと思っている、その基盤を取り消そうとしているのだから、抵抗は必至だ。

聖霊の3つのレッスンは、神への帰還の旅を、時間をかけながらゆっくり進むプロセスとして示している。その点で特に意義深い箇所だとされている。

A 所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい。

ワプニック先生は、「コースでこのように定義づけされているわけではありませんが」と述べつつ、この最初のレッスンは、「所有するためには、すべての者からすべてを奪いなさい」という自我のレッスンを取り消すものだと説明なさっている。

この自我のレッスンは、「どちらか一方」の原理がベースとなっている。自我の思考システムにおいては、与えることと受け取ることは相反する。誰かに何かをあげれば、それはもうその誰かのもので自分の手元にはもうない。

聖霊の最初のレッスン「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい。」は、その思考を逆転させるものだ。

自我たちは一時的な忠誠によって団結することはするが、常に、各々が別個に得られるもののためにそうするのである。」(T-6.V-A.5:9) 

これは、言葉こそ使っていないものの「特別な関係」のことを指しているのだという。

国と国との同盟を見ればわかりやすいが、この世での団結は愛があるからするわけではない。各々が別の存在から、自分が得するものを獲得するためだという。自分が必要としているものと引き換えに何かを与える。いわば取引だ。

それは、すべて同じ愛を与えたり受け取ったりするわけではなく、自我の原理を反映していると説明されている。

聖霊は、各人がすべての者に対して与えることができるものだけを伝達する。聖霊は決してその代わりに何かを取り去ることはしない。なぜなら、聖霊はあなたにそれを保持させたいからである。したがって、聖霊の教えは、次のレッスンから始まる。所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい。

これは非常に予備的なステップであり、あなたが自分で踏み出さなければならない唯一のステップである。」(T-6.V-A.5:10–6:1)

「2つの『すべての』に注意してください。」とワプニック先生。「神の子全員に例外なく赦しを与えなければならないのです。」

そうしようという決断こそが、このプロセスをスタートさせる。私たちが招き入れるまで聖霊は私たちを助けることはできないのだ。

この最初のステップは、ヘレンとビルが「何か別の方法があるはずだ」と言ったように自我の思考システムの原理に疑問を抱く、その後そうしたものは望まないと決心する、そのプロセスだ。その決心が聖霊への招待となる。

あなたはそのステップを自分ひとりで完了させる必要さえないが、自分でその方向を向くことは必要である。」(T-6.V-A.6:2)

ここでは、自分の生き方がどこか根本的に間違っていると認めて、心からイエス(聖霊)に助けを求める必要があるという。

その方向へ進む選択をしたなら、あなたは、その旅路の責任者となるのであり、ただあなただけがその役にとどまらなければならない。」(T-6.V-A.6:3)

私たちの心にある決断の主体こそが、旅の責任者だ。

このステップは葛藤を解決するよりもむしろ悪化させるかに見えるかもしれない。それはあなたの知覚を逆転させ、上下を正していくプロセスの最初のステップだからである。これは、あなたがまだ捨て去っていない転倒した知覚との間に葛藤を起こす。そうならないとしたら、もとより方向転換は必要なかったはずである。このステップに長い間とどまり、非常に鋭い葛藤を経験する者たちもいる。」(T-6.V-A.6:4-6)

「葛藤はあるはずです。」とワプニック先生。私たちは学習を進めつつも、ある部分では自分を肉体だと思っており肉体を生み出した思考システムを手放す心構えができていないから。

私たちの一部は、聖霊とともに神の国に帰りたがっている。別の一部は、この旅を進めるなら私たちは破滅するという。そのせめぎあいは学習が進むほど明らかになる。

この時点では彼らは、葛藤の解決に向かって次のステップを踏み出すよりもむしろ、葛藤を受け入れようとするかもしれない。しかし、最初のステップを踏み出したことによって、彼らは助けを得られるようになる。自分ひとりでは完了できないものを選んだなら、彼らはもはやひとりではなくなっている。」(T-6.V-A.6:7-9)

「この(聖霊のレッスンの)最初のステップは極めて重要なものです。」とワプニック先生。これまで丸ごと信じ切ってきた自我の思考システムが有効ではないと受け入れる準備がなければ、何も始まらないから。このステップはその重要な一歩なのだ。

議論の重要点

ここでの議論の重要点は、①心の抵抗の大きさを教えている点、②またコースの教えの実践が思うほどには完璧にはできない時に気を楽にしてくれる点、③そして「教えは易しいものだ」という霊的心理的無邪気さを遠ざけてくれる点だと説明されている。

私たちが、自分をこの時空で肉体として学んでいると捉えているかぎり、旅は易しいものにはならない。

だからこそ学びは時空を超えた心だけで起こると強調されているのだという。

ちょこっと感想

自分なりにまとめているつもりで、解釈が違っていたり表現上ニュアンスを変えてしまっていたりそれと気づかず間違いを垂れ流していたら、、、と不安に思うようになった。そういうところはこれまでもたくさんあるだろうなぁ。あくまでその時点の自分のフィルターを通したものしか書けないから。

ACIMを学べば、最初のうちは聖霊の視点と自我の視点が共存することになる。

葛藤を解決するよりもむしろ悪化させるかに見えるかもしれない。」(T-6.V-A.6:4)というのはよくわかる。『神の使者』をきっかけにACIMに惹かれ近づきたいと思ったけれど、ACIMはある考え方を受け入れるだけではなく、これこそが自分だと思って執着してきた自分を手放して後にしなければならないということが、ようやく実感としてわかりかけてきたから。

このステップに長い間とどまり、非常に鋭い葛藤を経験する者たちもいる。」(T-6.V-A.6: 9)

そうなりたいとは思わないけれど、これも非常によくわかる。強い恐怖に対峙するより、まだ葛藤のようがましかな、と思ったりする。

危ない、、、こういう考えを持っていると「このステップに長い間とどまる」ことになるや…も。

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