『Journey through the Text of ACIM』(51)-6章4節 赦しとイエス

2020-10-07

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。6章後半。秋らしくなった。先月は職業能力開発センターの“選考試験プロジェクト”の方に意識が向かっていたため、それが終わってから必死に訳に取り組んだ。

「私を手本とするように」というイエスの勧め

さて、今回は6章4節、赦しとイエスについてのざっくりまとめ。

最初に紹介されている引用文は、

あなたは私を学びの手本とするように勧められてきたが、それは、極端な例は特に役立つ学習教材となるからである。」(T-6.In.2:1)

この文を始め、6章のI.3:6、I.7:2、I.8:6-7、IV.9:4-6、V-C.9:7-8とイエスが自分を手本とするようにと述べている引用が6箇所、列挙されている。「お手本」として強力にプッシュされているのだ。

何のお手本とするのか。

それが、本節のテーマ、攻撃と見えるものにいかに対処するか、だ。この節では「聖書の中の十字架刑のイエス」を題材にしながら、このテーマが議論される。

攻撃は正しい心の状態にあれば、愛を求める叫びとして聞こえる。間違った心の状態にあれば、分離を正当化するものと受け取られる。

そして、攻撃に対処する姿勢が結果として赦しにつながるのだと説明されている。

まったく偏りなく公平に、聖霊があなたに与えられたのであり、偏りなく聖霊を認識することによってのみ、あなたははじめて聖霊を認識することができる。自我は多勢であるが、聖霊はひとつである。神の国のどこにも闇はないが、あなたの役割は、あなた自身の心の中にいかなる闇もとどまらせないことだけである。」(T-6.II.13.1-3)

「ここでの『公平に』は『特別性がないこと』を表わしています。」とワプニック先生。

私たちは自分の感情を、ある神の子に向けているのではなく神の子をまるごと愛したり憎んだりしているのだそうだ。

だから誰かを排除するということはできない。そう見えないのなら自分の心の中で闇を現実化していてそれを誰かに投影していることだと説明されている。

そしてここでワプニック先生は「赦しと言葉は出てきませんが」としながら赦しの定義を述べられている。

「赦しとはこうした投影されたものの中に有罪性(罪あり)を選んだ心の決定を認め、他者を責める自分の気持ちを逆に自分自身を赦す手段として用いることができるようにする、そのプロセスなのです。」(訳、稚拙ですみません。本節の中核部分じゃないけれど、気に入って書いた)。

イエスを手本とするとは、どういうことか

私があなたと同じであり、あなたも私と同じであるという点を、私は明確にしたが、私たちの根本的対等性は、共同の決断によってのみ実証される。」(T-6.I.5:1)

ワプニック先生は、イエスが時間という幻想の中で私たちとの唯一の違いだと言っているのは、「自分(イエス)には聖霊を支持する決断において曖昧さがなかった」と言っている点だと説明されている。だからイエスには自我はない、と。

そして、私たちもいずれイエスと同じ決断をする必要があり、それゆえイエスを手本としなければならないとおっしゃっている。

あなたには、そう選ぶなら、自分が迫害されたと知覚する自由がある。しかし、そのように反応しようと選択するときに思い出すとよいことは、私は世界が裁く通りに迫害されたが、自分のためにこの評価を共有しなかったということである。」(T-6.I.5:2-3)

ここでは「迫害というものは私たちになされることではなく、他の誰かに罪の意識を見たいという要求に基づく知覚、言い換えるなら解釈なのです。」とワプニック先生。正論と言えばそうだがなかなか厳しい。

さらに「イエスを私たちの手本とすることは、愛からの分離は起こりえないので、何もされてはいないという真の知覚を共有することです。」と続く。

攻撃されたら仕返したくなるのが人情だが、攻撃に攻撃で反応するなら、自分が自我の思考システムを選んでしまっているという証拠。外の出来事は無関係だ。

一方、攻撃ではなく赦しの教師を選べば、愛の現れとなるという。これが真の因果だ。

十字架刑についてのイエスの再解釈

私は、あなた方と私自身のために、自我の判断によれば最も残虐な猛攻撃とされるものですら、問題にならないと実証することを選択した。」(T-6.I.9:1)

私たちは同じ体験をする必要はないが、それでも学ぶ者として対等である。…あなたは迫害されてはいない。また、私も迫害されなかった。あなたは私の体験を繰り返すよう求められているのではない。なぜなら、私たちが共有している聖霊が、それを不要にするからである。」(T-6.I.10:1,11:1-2)

私が学んだがゆえに教えなければならない一つのレッスンは、聖霊の判断にそぐわないどのような知覚も正当化できないというものである。私はこれが真実だということを極端な事例で示すことを引き受けたが、その理由は単に、怒りや猛攻撃に屈服してしまいたくなる誘惑がそれほど極端でない状況に居る者たちにとって、それがよき補助教材として役立つからであった。私は、神の子の誰もが苦しむべきではないということを、神と共に意志している。」(T-6.I. 11:5-7)

端折ってしまったが、この箇所にはもっと長~い引用がある。

ここでイエスが言いたいことは、「十字架刑の意義は、苦しみ、犠牲、死といった形態にあるのではなく、攻撃と見えるものに直面した際に防御しない姿勢(defenselessness)でいるということを通じてそれを教えるという内容にあるのです。」(ワプニック先生) という点だ。

だから、自分を十字架上のイエスの肉体に重ねるのではなく、癒されているイエスの心を見習うべきだとする。

私たちが肉体である場合にのみ攻撃は現実のものになるが、私たちは肉体ではなく心なので、攻撃はなされ得ない(書きながら、非常に難しいと思う)。

十字架刑のメッセージは、次の通り、明白である。愛だけを教えなさい。それがあなたの本性だからである。」(T-6.I.13)

ワプニック先生、この世は残念なことに逆―「罪だけを教えなさい。それがあなたの本性なのだから」―になっているとおっしゃる。

十字架刑についてこれ以外の解釈をするなら、あなたはそれを、その本来の意図である平安への呼びかけとしてではなく、猛攻を加えるための武器として用いている。」(T-6.I.13.1)

解釈によって誰もが十字架刑を攻撃の武器としてしまうリスクがあるという。それは自分の愛が完全なものでなかったり恐れがあったりした場合それを投影してしまうから。

イエスがキリスト教のシンボルを使っているのは、それが広く世界に広がり西洋世界の礎となっており、一定の人はそれを真実だと捉えているからだ。

しかし重要なのは史実ではない。その真偽に関わらず本質のメッセージは一つ。

「まったく起こっていないことに対する赦しなのです。」(ワプニック先生)

そしてイエスはその真実を生きることによって教えてほしいと願っている。

私が求めているのは、殉教者ではなく、教師である。誰も罪のゆえに罰せられることはなく、神の子は罪人ではない。」(T-6.I.16:3-4)

十字架刑はこの世における「葛藤」の象徴

十字架刑は、明らかに相互に対立する思考体系がもたらしたものであった。それは、自我と神の子との間にある『葛藤』のように見えるものの完璧な象徴である。この葛藤は、今も同じく実在するかに見えており、そのレッスンは、当時と同じく今も、習得されなければならないものである。」(T-6.I.16:7-8)

十字架刑をどう捉えるか。

罪とそれに対する罰と犠牲か、

あるいは赦しと愛か。

十字架刑にはこの世の選択の葛藤が象徴されているのだという。

「イエスは、罪と罰と犠牲という自我のメッセージの核心である殉教の証人となるのではなく、赦しと愛のメッセージを教えるよう私たちに要請しています。」(ワプニック先生)

ACIMは「決して起こっていないことから私たちを救う赦しの思考システム」だ。

一方、自我の考え方は「どちらか一方」。―私の苦しみはあなたの罪の証拠。だから私ではなくあなたこそ罰せられるべき、だ。

実際この自我の原理はこの世のあらゆる原理を支配している。

そして、私たちはイエスとACIMによってこれを修正中だ。

神の子は肉体ではない。傷つきえない。

この後にはイエスの赦しと防御しない姿勢を要約した箇所として、I.19が丸ごと引用されているが、ここでは省略。

ワプニック先生によるこの箇所の説明には、肉体は確かに傷つきえるが、心は影響を受けない。私たちは肉体ではなく心である。自分が一見攻撃のように見えるものに対峙した際に心が防御しないでいることは、その姿勢によって赦しと愛を教え、自分も同じレッスンを学ぶことができると思い起させると書かれていた。

イエスの想い

神の国の名において、兄弟たちに私がそれを教えるのに手を貸してほしい。しかし、まず、それがあなたにとって真実であると信じなさい。さもなければ、あなたは誤った教え方をすることになる。」(T-6.I.7:5)

私の兄弟たちが、一つの声だけを聞くという私の決断を共有しないとき、私は残念に思う。それが彼らを教師としても学ぶ者としても弱めるからである。だが、彼らが真に自分自身や私を裏切ることはできず、私は依然として彼らの上に私の教会を建てなければならないと知っている。」(T-6.I.8:1-2)

イエスは学習者に真のメッセージを伝える役目を求めている(またたとえそれができなくても、罪悪感を感じてほしいとは思っていない、とワプニック先生の補足あり)。

そして、私たち学習者がイエスの決断を共有しなければ「私は残念に思う」と。

ちょこっと感想

とにかく長くなり過ぎないようにせねば…と端折りながら書いた。…が、あいかわらず長文に(~_~;)

今回はテキスト6章を読みながらやったが、とくに難しすぎることだらけだ。この部分。

だが、破壊そのものが不可能であるのなら、破壊可能なものは何であれ、実在するものではあり得ないことになる。したがって、肉体が破壊されても、怒ることは正当化できない。」(T-6.I.4:3-4)

肉体が破壊されても、怒ることは正当化できないー。

とてもじゃないが、そんな心境になれそうにない。

それでも、イエスが最後に言われた、イエスの決断を共有しなければ「私は残念に思う」という言葉は、印象的だった。

「残念に思う」…コースの中で珍しくイエスのニンゲンっぽさを感じてしまった。

私は残念ながらさほどイエスご自身に親しみを感じられている方ではないが、残念に思わせたくはない、と思う。

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