『Journey through the Text of ACIM』(50)-6章3節 自我の戦略:マインドレスな肉体②

2020-09-14

投影とは

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。6章3節の後半にあるサブテーマ「投影:怒りと攻撃」について。

「投影」という言葉はすでに2章で登場しているが、冒頭「ここ(6章)で本腰を入れて見ていきます」とおっしゃっている。

投影とは、自分にとって受け入れがたい感情や状況に直面した際に、それを自身のものと認めるかわりに他者に被せ(転嫁し)自分の不安を軽くしようとする無意識的な心理メカニズムをさす(心理学で提示されている定義をいくつか参考にまとめた)。

ワプニック先生は、ACIMにおいて投影は自我の思考システムの主たる構成要素であり、赦しの意味や本質は投影が理解できて初めて見えてくると述べられている。

投影のメカニズム

あなたは自分が投影するものを放棄するので、それが自分のものだとは信じていない。」(T-6.Ⅱ2:1) 

これまでも何度か見てきたそもそもの話ー投影のメカニズムがここでまた丁寧に議論されている。

「投影の根っこには私たちが神から分離したと信じ、その分離した自己こそ自分だと思っている信念があります。」とワプニック先生。

そしてすでにおなじみとなった根幹の展開。

自我は「(分離した自己を)とんでもなく罪深い」と教え、私たちはそれを真に受けて「あ゛~、ほんとだ、なんてことしてしまったんだ…」と途方もない罪悪感に苛まれる。

こんなひどいことをした以上、神からの復讐は免れない、厳罰こそふさわしい。

罰は避けられない。破壊される。恐い。恐ろしい。あ゛~。耐えられない。罪さえなければ…。

…とここで無意識的に行われるのが「投影」だ。

投影がはたらくと、

あ~ら不思議。罪はもう自分にはなくて、あの人にあるように見える。もう、罪悪感も罪も恐怖も(神聖ならざる三位一体)は自分からは除かれた、…かのように感じる。

あなたは、投影の対象である相手と自分は異なるという判断そのものにより自分自身を除外している。」(T-6.Ⅱ2:2) 

ワプニック先生は、「異なる」という言葉はACIMにおいて非常に重要な意味を持ち繰り返し出てくるテーマだと言われる。

自我というのは「私たちは分離したので、神とは異なる」という考えをベースにスタートしているからだ。

罪悪感を他者に投影した私たちはこう言うのだという。

「あなたは有罪ですから私とは異なります。私は無罪潔白。」

これがあらゆる投影バリュエーションの根底にあるオリジナルの投影だ。

投影は元の罪悪感を減らしはしない

あなたはまた、自分が投影しているものを裁いたのだから、それを攻撃し続ける。というのも、あなたはそれを分離したままに保ち続けるからである。」(T-6.Ⅱ2:3) 

これを無意識のうちに行うことにより、あなたは自分自身を攻撃したという事実を自覚せずにいようとする。そうして、あなたは自分を安全にしたと想像するのである。」(T-6.Ⅱ2:4) 

投影は、罪と罪悪感を自分から切り離すためだった。

「悪いのはあいつだ。」…うまく切り離し自分は関係なくなったかのように思える。

しかし、「よく見てみると、投影は意図されたことを成し遂げてはいないことがわかります。」(ワプニック先生)

というのは、自分で意識はできなくても罪悪感は内に留まったまま。深いところで自分を裁いているから。「想念はその源を離れない」の原理通りだ。

私たちは、罪悪が外にあると思うことで自分が安全だと思っていたい。「だから、個人的にも集団的にも悪事をはたらく人を心の中ではなく、外の世界に見て他者を罰し非難する必要があるのです。」(ワプニック先生)

だが投影は常にあなたを傷つける。」(T-6.Ⅱ3:1) 

投影というしくみは、痛みを認識させないようにしているだけで痛みの元はそのままなばかりか、分離は現実、私たちは罪悪の子だという信念を強化しており、結果的にはさらに私たちを傷つけることになるという。

投影の真の目的と攻撃、怒り

それはあなた自身の分裂した心への信念を強化するものであり、投影の唯一の目的は分離を継続させることにある。それは単にあなたが兄弟とは違っており彼らから分離しているとあなたに感じさせるための、自我による仕組みにすぎない。」(T-6.Ⅱ3:2-3) 

自我にとって投影の目的は、分離を継続させること。言い換えると、分離を継続させる自我のしくみこそが投影だ。

投影と攻撃は必然的に関連している。なぜなら、投影は常に攻撃を正当化する手段だからである。投影を伴わない怒りというものは不可能である。」(T-6.Ⅱ3:5-6) 

自分が密かに感じている罪悪感を一なる子を分離した存在=他者へ被せたうえで、「罪悪があるのだから罰せられるのがふさわしい」と糾弾する。

「この投影された攻撃は『私に何をしたか見てみろ』という怒りによって正当化され、それは実際何をしたのかとは無関係なのです。」(ワプニック先生)

怒りと攻撃の関係は明白だが、怒りと恐れの関係は必ずしもそれほど明らかではない。」(T-6.In.1:1)

この引用文についてワプニック先生は、「怒りは、心が罪悪感でいっぱいのままでいれば私は破滅してしまうという恐怖に対する防衛であり、その関係はわかりやすいものではありません。」としつつ、「私たちは罪悪感を誰かに投影することで自分を守り、怒りを持つことによって現に罪があるのだという思いを強めています。」と述べられている。

投影は怒りを意味し、怒りは猛攻撃にまで発展し、猛攻撃は恐れを促進する。」(T-6.Ⅰ.3:3)

投影し怒り、攻撃し、それが巡って報復への恐れにつながるメカニズムは、結果的には罪悪感を守ることに貢献する。私たちは外からの危険には対処するが、心を見ることはしない。恐怖、投影のメカニズムは手つかずなまま温存される。

怒りは決して正当化されない

怒りは常に分離の投影を伴うが、それは究極的には自分の責任として受け入れられるべきものであり、他人のせいにされてはならない。自分が攻撃されたと信じ、それに対する反撃が正当化されると信じ、そのことに自分は何の責任もないと信じているのでない限り、怒りが生じることはあり得ない。」(T-6.In.1:2-3)

イエスはここでも「怒りは決して正当されない(T-30.VI.1:1)」ー理解はできるが正当化できない、と言っている。

怒りというのは投影の結果起こる「他者が私の平和を奪った」という認識に伴う感情であり、間違った前提に乗ったものだから正当化できない。

すべての物事は自分の想念を映し出したものであり、他者とは本来関係がない。

あなたは攻撃されることなどあり得ず、攻撃にはいかなる正当な根拠もなく、あなたが何を信じるかはあなた自身の責任である。」(T-6.In.1:7)

私たちが肉体の世界を必要としている核心の理由は、罪があり狂っているのは他者だと投影できるようにするためなのだという。

それでも、ACIM学習者はイエスに助けを求めているので、問題は心にあり赦しによって取り消されるべきものだと気づくことができる。

…と、次節「赦しとイエス」へと続く。

ちょこっと感想

この投影という概念を用いると、世の中で起こっていることがわかりやすくなる。

近年は社会全体の風潮として「裁く」という傾向が強くなってきた気がする。裁く時、「悪いのは〇〇さん」と思うと無意識の罪が少し和らいで楽になるという錯覚がある。だけど、投影のメカニズムからすれば、罪悪感の本体はそのままなのだから投影先である裁く対象をえんえんと求め続けなくてはならなくなる。

元を減らすなら、赦しだ、やっぱり。

6章前半を振り返ると、脅威を感じた時点で(攻撃されていなくても)攻撃と知覚され、正当防衛という名の攻撃が正当化される、という説明が印象に残った。

脅威を感じたらその時点で感じさせた相手に攻撃してOK…とは、乱暴な理屈だ。だけどゲンジツにはよく見られることだ。

理屈はわかったと思うが、だからといって自分の感情が扱いやすくなるわけではない。まったく別物だ。

理屈はうまくなっても感情の扱いはまだ幼児レベル。。。勉強が進んできたらやみくもに投影もしづらくなってきた。

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