『Journey through the Text of ACIM』(49)-6章3節 自我の戦略:マインドレスな肉体①

2020-09-12

自我のマインドレス化戦略

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。6章3節、自我の戦略:マインドレスな肉体について。この3節には後半サブテーマとして「投影:怒りと攻撃」という部分があるので、今回はその前まで見ることにした。

この節は、Ⅳ.4の引用文から始まっている。

自我には聖霊が聞こえないが、自我を作り出した心の一部が自我に反対しているということだけは信じている。」(T-6.IV.4:1) 

これにより、自我は自分の作り主への攻撃が正当化できると解釈する。」(T-6.IV.4:2) 

自我は自らの存在が私たちの「決断の主体の選択」に依拠していることを知っており、これに脅威を感じている。

そのうち自我への信念を引き上げてしまうのではないか…そうすれば自分は消える。それだけは何としても避けねばならない!

そう思う自我が講じる手立てが、前節から見ている「マインドレス化戦略」だ。

これは主に、私たちの心の決断の主体が選択力を持っていることを気づかせないこと、心を正気に戻させないことに力点が置かれている。

自我は最良の防衛は攻撃であると信じており、そのことを、あなたにも信じさせたいと思っている。」(T-6.IV.4:3) 

自我の信条は「最良の防衛は攻撃」というものだ。前節にあった「脅威を感じたらそれはすなわち攻撃されたこと。正当防衛としての攻撃OK」というものもある。

そもそも自我は「神への攻撃がうまくいった」という信念そのものなので、そこから誕生している個々の私たちの存在も「攻撃」に根ざしているのだという。そしてこの攻撃が自我にとっては防衛として機能する。

自我は戦略に肉体を使う

自我はあなたの心に対抗する陰謀を企てるために、肉体を利用する。自我の『敵』が自我と肉体を消し去るには、自我も肉体もあなたの一部ではないと認識するだけでよいということに、自我は気づいている。だから、自我は肉体と団結して、心に対する攻撃を企てる。」(T-6.IV.5:1) 

自我はマインドレス化戦略に肉体を使う。肉体と団結して心に対する攻撃を企てるのだ。

「間違った心と肉体は、決断の主体を心から追い払うことによって攻撃に加わり、自分が想念ではなく自我の長年の味方である肉体だと信じ込ませます。」(ワプニック先生)

これには次のような信念も伴う。

世界は内ではなく外にある。

肉体には脳がある(心はない)。

私たちは他の肉体によって作られた肉体である。

このことが真に何を意味するのかをよく考えてみるなら、これはおそらくあらゆる知覚の中でも最も奇妙な知覚だと言える。」(T-6.IV.5:2) 

実在していない自我が、実在している心に対して、心は自我の学習手段であり、さらには肉体のほうが心よりもずっと実在性があると、説得を試みるというのである。」(T-6.IV.5:3) 

「奇妙な知覚」…。そもそも私たちの知覚は当てにならない。この世も肉体も存在しないと認識するのがまともなのだが、それは容易なことではない。

「肉体は単なる結果であり、心の力にこそ原因があると理解することで、私たちは間違った判断を変えることができます。それが奇跡の役割です。心が治癒すれば自我の生と死の夢の独裁政治は終わりを迎え、私たちはキリストとしての永遠の命を呼び起こすのです。」(ワプニック先生)

肉体も、死も、無

あなたの肉体と自我と夢が消え去ったとき、あなたは自分が永久に続くと知るだろう。おそらくあなたは、これが死を通して達成されると考えているに違いないが、死を通して達成されるものなど何もない。死は無だからである。」(T-6.V-A. 1:1-2) 

私たちが同じ心を共有しているのであれば、私が死を克服したのだからあなたも死を克服できる。」(T-6.V-A. 1:5) 

死とは、何も決断しないことにより葛藤を解決しようとする試みである。自我が試みる他の不可能な解決法と同様に、それはうまくいかない。」(T-6.V-A. 1:6-7) 

「肉体は無」とは繰り返し出てくる重要なテーマだ。

「それ(肉体)は、死んだり生きたりしませんし、病気になったり癒されたりもしません。見ることも聞くことも考えることもありません。操り人形のように単に心の命令に従っているだけです。」(ワプニック先生)

私たちは自我の言葉に従い、神からの分離をリアルにしてしまった。肉体は、その罪への罰としての死への信仰も盤石にする。

しかし、イエスは、死を「決断しないことにより葛藤を解決しようとする試み」だと言い「私が死を克服したのだからあなたも死を克服できる」という。

ワプニック先生は、「死もまた自我の幻想上の心の想念にすぎず、無です」と説明なさっている。

罪悪感が肉体を通して、分離信仰を強化する

肉体は、あなたが自分は何であると考えているかを象徴するものである。それは明らかに分離のための仕組みであり、したがって、存在しない。」(T-6.V-A. 2:2-3) 

ワプニック先生は、最も熱心なACIM学習者でさえ肉体信仰があり肉体が無だと認めることを恐れていると指摘なさり、本当に祈りを捧げるべきは肉体ではなく心なのだとおっしゃっている。

肉体は罪悪感をリアルにすることで自我の戦略を支えている。

罪悪感には、罰せられるという恐怖が伴う。そしてこれを避けたい気持ちが、他の肉体への投影という作用を生む。それが「罪悪感を取り除くには投影できる他の肉体が必要」という思いにつながり、分離への信念を強化するのだという。

「ここに世界が作られた目的があり、だからこそ世界は私たちが“肉体”と呼ぶ分離の象徴でいっぱいなのです。」(ワプニック先生)

ここから次の「投影」のテーマへと入っていく。

ちょこっと感想

この本を読んでまとめる作業がなかなか進まないのは、テキスト引用文にあった「奇妙な知覚」にも関係しているのかもしれない。

つまり自我の戦略について読むのは、催眠術にかかった状態でいながら…そして今まさにかけられ続けながら、それを解く解説書を読んでいるような感覚があるから。

催眠術をかけているほうの自我は、「おい、お前、それ以上鵜呑みにするんじゃないぞ。近づくな、危ないぞ、お前。」と耳元で言っているのか。少し書いては休み、少し読んでは休み…いつも以上に進みが遅い。

肉体はない、死はない…

お盆に、母から「あんた顔丸くなったね。太ったね。あごの肉も。」と言われ(肉親は本当のことを言ってくれるからありがたい)、気になっている私は論外だな。

肉体信仰から派生した若さ信仰、美容信仰、健康信仰…などなどいろんなものを拝んでいる。

それらと同じ線上に、ACIMを置いていても葛藤が深まるばかりだ。

このワプニック先生の解説本を読むことでエッセンスが少しでも心に浸透していますように。

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