『Journey through the Text of ACIM』(47)-6章1節 神-創造(延長)-贖罪

2020-09-09

神の全一性

ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。6章1節、神-創造(延長)-贖罪について。

ACIMでは、神や天国の性質についてあまり述べられていない。真理は現在の私たちの立ち位置からは理解しえないものであり、このコースの核心部分ではないからと。

それでも、「簡潔に要約すると、天国とは一体であり、創造や延長の過程はどこへもいきません。」(ワプニック先生)と説明があり、「というのは、神の心で始まり神の心で終わり、神の心だけがあるからです。すなわち想念はその源を離れません。」と続く。そして次のテキスト引用文が挙げられている。

神はご自身の想念を延長させ、それらの延長された想念をご自身の心の中にとどめておくことによって、神の子らを創造した。したがって、神の想念のすべては、それぞれの中で、そして互いと、完璧にひとつに結びついている。聖霊は、あなたが今この全一性を知覚できるようにする。」(T-6.II.8:1-3)

これは神の全一性を表わす引用文であると同時に、贖罪の原理について言い現わしている。

その神の一体性の下では、所有することと在ること、与えることと受け取ることは同じで、私たちが神の愛を持っているのは私たちの本性が神の愛だからで、神の愛でありその愛を持っているからこそ、愛を与えたり延長したりすることしかできないのだという。このあたりは、後の節、聖霊のレッスンで改めて見ることになる。

神の全一性は、小さな狂った想念の影響は受けない

となれば、贖罪を完全に自覚するということは、分離は一度も起こらなかったと認識することに他ならない。」(T-6.II.10:7)

喜びのない場所では、自分がそこに居ないと気づく以外にどのようにして喜びを見つけられるだろう。あなたは、神があなたを置かなかったところに存在することはできない。そして、神はあなたをご自身の一部として創造した。それが、あなたの居場所であり、あなたの本性である。」(T-6.II.6:1-4)

ここも贖罪の原理の説明だ。神の全一性は、「小さな狂った想念(tiny,mad idea)」の影響は受けない。私たちは神の元を一度も離れたことがなく、今も神の愛の心の内に完全にひとつで、創造されたままだ。

神は自らの一部として神の子を創造した。それが居場所であり、本性だ。これが永遠の真実だ。

ただ、私たちはこのシンプルな事実を信じていないので、聖霊に「一度も離れていないところへの戻り方」を教えてもらうことになる。

これについて、自我は「戻ることは困難だ」と主張し、聖霊は「起こってないことを認識して取り消すだけ、贖罪の原理は容易」と言う。

自我との一体性を選択してしまっている私たちは、「困難」と知覚する。

なので、やっぱり「起こっていないことの取り消し」を意識的に学ばなくてはならない。

神への攻撃が可能なのは自我の妄想のなかだけ

したがって、実存は決して脅かされない。神と同質のあなたの心が冒涜されることはあり得ない。自我はかつてその心の一部であったことはなく、これからもそうなることはない。しかし、自我を通して、あなたは真実でないことを聞き、教え、学ぶことができる。あなたは、自分が本来のあなたでないと信じることを、自分自身に教えてきた。」(T-6.Ⅲ.1:5-8)

この引用文では、ワプニック先生は「自我という語が紛らわしい」と解説を加えられている。というのは、ACIMでは通常、「自我」は「間違った心」のことを表わすが、ここでは「最初に分裂した(と思った)心全体」について用いられているから。つまり、この文章の2つめの「自我」は分裂した心の「決断の主体」を指しているのだという。

その私たちの決断の主体は、聖霊ではなく自我を選んで今ここまで来た。

これは赦しという手段によって正すことができる。その指南書がACIMだ。

それならば、自我が発するすべての質問に対する聖霊の一なる答えを聞きなさい。あなたは神の子供であり、神の国のかけがえのない一部分であり、神がご自身の一部として創造したものである。これをおいて他には何も存在せず、これのみが実在している。」(T-6.Ⅳ.6:1-2)

これは自我の主張に対する聖霊の答えなのだという。

神の国の全一性は、あなたの知覚に依存してはいない。しかし、その全一性についてのあなたの自覚は知覚に依存している。保護が必要なのはあなたの自覚だけである。実存が襲われることはあり得ないからである。」(T-6.Ⅴ-C.8:3-4)

実存(キリストとしての私たちの現実を表わすためのコース用語)としての性質は、襲われることも変えられることもない。まして破壊されることなどありえない。しかし、妄想の中ではこれらすべてが可能だ。「私たちは自由に神の国の全一性を攻撃し、これを断片化することに成功したのだと狂信的に思い込み、その結果神の国が本来のものではなくなっています。」(ワプニック先生)という。

この真実(=贖罪の原理)を自我は恐れている。だからこそ、決断の主体が正しい判断をして異なる選択をし直さないよう画策し、それが2節「自我の贖罪に対する恐れ」へとつながる。

ちょこっと感想

また解説をかいつまんで書き並べたら、案の定読みにくくわかりにくいものになってしまった(自己満足のまとめですみません)。

神や天国についての記述が少ないのは、いくら説明してもやっぱりわからないからだろう。

天国は一体。創造(延長)は神の心の中だけで生じること。分離は一度も起こっていない。したがって、この世もこの私もない。私たちは神の心にそのままある。

そう言われてもリアリティに欠ける。そうかなぁ、そうなんだろうなぁ、と思うばかりだ。

一方、肉体とこの世はリアルだ。

今日は一年半ぶりに歯医者さんに行った。数年前に治療済みの奥歯の詰め物が取れたのだ。単に入れてもらえばいいと思っていたが、セラミック歯が分裂していて取れたのはその一部だった(分離の象徴か)。

一から新しく作り直さねばならず、残ったほうのセラミック歯を取り除いてから既存歯を少し削ったが、やっぱり恐かった(>_<)

歯医者さんは「そこまで力まなきゃいけない施術じゃないよ。楽にして。」とおっしゃったが、緊張で固まり息を吐くタイミングを逸した。

あ゛あ、ぐるしい (+_+) 

若い歯科衛生士さんはハンカチを握りしめて怯える私をどう思っただろうか。

しょうちゅう「私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」(W-pⅠ.rⅣ.In3:3-5)と唱えているはずなのに、あまり“成果”を感じなかった。私のスタート地点のレベルがうんと低かったからで、自分比では進んでいるんだろうか。

ワプニック先生は、何度も贖罪の原理に対する自我の恐れや抵抗について解説されているが、6章でも次節でやっぱり出てくる。これについてはいくら聞いてもこれで十分ということがない。

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