“時空ボケ”… 正気はどこにある

2020-08-19

帰京後は“時空ボケ”

お盆帰省から東京に戻って二日。たった数日の帰省なのにすごく長く遠くに行っていたみたいだ。

帰省中は母がずっとそばにいておしゃべりしたり何か聞いてきたり頼みごとをしてきたり。また家には母独自の細かいルールやルーティーンがあるからそれに合わせていると、東京に戻ったときには「あれ、何だっけ?どうしてたんだっけ?」となる。毎度のことだ。どういうメカニズムなのだろう。

ひと頃よく言われた「アダルトチルドレン」みたいなものなのかな?あるいは「母子癒着」とか?

母のそばにいると、自動的に母の思考、嗜好に合わせ、必要以上に影響を受けてしまうのか。そもそも心理学上の自我が未発達なまんまなのか。

そういう自分から脱却すべく「東京の自分」を作ったつもりだが、それが生家に行くたびになし崩しになるのか。

今のぼんやりしたところからは分析不能だ。

帰省中、ACIMのことはほとんど思い出さなかった。

それでも以前は母に頻繁に感じたいらいらを感じなくなり穏やかにいられるのは、ACIMの考えが浸透しつつあるからなのかな。

海岸線からの立山連峰

海岸線からの立山連峰

故郷で感じる「人間回帰」

母は、帰省しないかと思っていた私が来たことで「なんとか人並みにお盆が過ごせた、よかった」と喜んでいた。

人並みってー自分の心の中だけにあるものだよね?と思いつつ聞いている。

別にそんな慣習なんて必須のものじゃないー。合理性もない。

それでも、ご先祖さまのご膳を用意したり、和尚さんのお経を聞いたりお墓参りをしたりしていると、心が整う気がした。

また、母とスーパーに行き買物して料理を作ったり、猛暑でやられた植木の手入れをしたり、家の掃除をしたり、そういう当たり前のことも「人間らしい」と感じた。マンション住まいより土の上に建っている一軒家のほうが、何だか「人間回帰」するみたいだ。

これは、東京のマンション暮らしがよくないというのではなく、私が日頃ひとりでいすぎて偏った生活をしているためだと思われる。

私はおそらく“この世の幻想性を見る”というACIMの教えを自分に都合よく歪曲して、リアルにしてしまったこの世からの逃避場所として用いているようなところがあるのだ。つまりACIMで教えていることとは真逆なことをやっている。

理想は、自分が「人間らしい」と思う場所でACIMを実践できるようになること、かな?

つまり、故郷で母といてもACIMの教えを覚えていて実践できるようになること?

いやいや、これは母子癒着問題の他にもいろいろあってハードルが高そうだ。

私の正気はどこにある

私はここ数年(いや、もっと前から?、いやずっと?)モラトリアムなひきこもりだ。

(モラトリアム、調べてみた:肉体的には成人しているが、社会的義務や責任を課せられない猶予の期間。あるいは、そこにとどまっている心理状態。)

一方、私の場合はその環境があったおかげでACIMの導入部分の理論に取り組むことができた気がする。さてここからどうする。

帰省して戻った翌日、まだ故郷の感覚がしっかり残っていた。

その時、「正気を失わないうちに」思っていることをメモしなきゃ、とノートを開いた。

え、故郷が正気?ACIMも思い出さないのに?とびっくりする。

いやいや、東京でACIMを覚えている時のほうが「正気」?

正気ってー?

う~む。わからない。

いや、もう少しクリアになってから考えよう。

その時にはまたそこからしか見えなくなっているだろうけど。

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