シェアの会は『Journey through the Text of ACIM』の“一里塚”

2020-08-10

私にとってのシェアの会

『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のシェアの会。以前は直接会って各自が読んだパートの気になる点や重要だと思う点等を発表し合っていたのだが、コロナ禍の今はオンラインで。じっくりパートを読むということはやめ、近況報告&雑談が主となりつつある。

この本を読むということは今では私の生活の一部になっており、シェアの会は私にとって旅の“一里塚(英語ではマイルストーン?)”のようなものになっている。

といっても一里塚ってどういう役割ー?と、見てみたら、道程の確認と休憩所だった。

うん。そういうものかな。

そして次の一里塚まで「さぁ精出して、また歩くか」というモチベーション維持の役割が大きい。

見えている景色はそれぞれ…

…さて、週末そのオンライン・シェアの会があった。

仲間のひとりに大きな変化があった。びっくりした。これについては、私が見えるところから良し悪しなんて言えないけれど、私は「いいこと」と確信している。

そして、トベちゃんが“お師匠さんのような存在”と慕うテディさんが今回も参加してくださった。感謝!

仲間が「テディさんはどういう経緯でコースを学ばれることになったのですか」と質問してくれ、それに答えるかたちで、2007年頃書店で目にした『神の使者』を読んでACIMを知ったこと、まだ大内博さん訳も出ておらず当時あった訳(おそらく田中百合子さん訳)で読んだ後は内なる必要性に迫られむさぼるように(多少私の表現)ご自身で未翻訳本にどんどんあたったことなどを教えてくださった。

テディさんは、少し話をしただけでも、すご~い頭がよくてピュアな方だなぁ、と感じる(私がそんなふうに形容するのは失礼なのかもしれないが)。

話を伺いながら、テディさんから見えるACIMと私が見ているものはまったく別物なのでは…、と感じた。

自分の理解力や体験に応じ、見えるものと見えないものがある。そもそもかたちがないACIMの場合はとくに。

私は、ブログに稚拙さを垂れ流していてそれと知らずすっごい恥ずかしいことになっているんじゃないか…。と思った。

しかし終了後、だとしても「私」というフィルターを通さずに、話せることも書けることもない。それは仕方ないことだと思い直した。

テディさんから見えている風景はどんなものなんだろうかー。

理解が深まれば深まるほど、ACIM(イエス)の要請の度合いもわかり難しさはより増すのかもしれない。

そしてこの世では男性のほうが、社会との距離が近い分(私見)、ACIM学習には覚悟みたいなものが要るのかもしれない。

もちろんこれも私からの見え方だ。

私からは画面越しのテディさんとトベちゃんの表情が似て見えた。

深い縁があるのかな、意識下で助け合っているのかな、と思った。

それにしても、いつも思うのは、トベちゃんの段取り上手、気づかい上手だ。

「(この世で)何をするか」はACIM学習上は関係ないとはいうが、みんなをまとめつつみんなにとって程よい場をつくるって容易なことじゃない、これも積み重ね、経験だな~と思った。

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