『Journey through the Text of ACIM』(38)-5章1節 聖霊

2020-07-08

聖霊はどのようにはたらくか

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の5章1節、「聖霊」について。

ここでは聖霊の性質やはたらきと、聖霊に対する私たちのあり方について述べられている。

前節(序章)の「言葉」についてのトピックの中で、「聖霊とは、私たちが分離という夢を見たときその夢に『神の子』としての記憶を持ち込んだもので、人のようなものではなく記憶そして概念、考えだ」という箇所があった。

5章1節はこれを踏まえた上で、聖霊がどのようにはたらくのかについて、テキストの引用からスタートしている。

聖霊の声は倣慢になれないので、命令しない。」(T-5.II.7:1)

支配しようとしないので、要求しない。」(T-5.II.7:2)

攻撃しないので、征服しない。」(T-5.II.7:3)

では、聖霊は何をするのか。

聖霊の声はただ思い出させるだけである。」(T-5.II.7:4)

何をー?

私たちは神の一部であり愛だということ。

それによって、今とは違った選択可能性が見えてくる。

ワプニック先生は例を挙げつつ以下のようにおっしゃっている。

「テキストにはどこにも、聖霊が駐車スペースを確保してくれたり、がんを治してくれたり、あるいは世界に平和をもたらしてくれたりするとは書いてありません。聖霊の静かな臨在はただ、私たちが忘れてしまっているものを思い出させるだけです。それは愛であり、戦いではなく平和というもう一つの道を思い出させることで、私たちに異なる選択をするよう促してくれます。」

言い換えるならそもそもの問題の所在は、本来は笑い飛ばすべきだった分離という考えを真に受けてしまったことだ、とも書いておられる。

聖霊の役割

続いて、聖霊の役割について触れられているテキスト箇所が引用されている。

聖霊は、自我による解釈と霊に属する智識との間の仲介者である。」(T-5.III.7:1)

聖霊は、自我の言葉を扱える一方で神の法則も理解できるので、智識と知覚の世界の仲介者としての役割を果たす。さらに再解釈者としての役割も果たしている。

したがって、神のためにあなたを解釈し直すことが、聖霊の任務である。」(T-5.III.7:7)

自我が作り出したものの再解釈者である聖霊は、あなたを故郷へ連れ帰るための教育の仕組みとしてこの世界を見ている。」(T-5. III.11:1)

私たちが、教育のしくみとしてのこの世界で、仲介者であり再解釈者である聖霊の導きに従えば、内なる罪悪感と攻撃性(恐怖)は徐々に取り消されていく。

象徴を用いつつ象徴を超えて真理へ

ワプニック先生は「象徴を用いつつ象徴を超えて真理へと導く」という聖霊(またはイエス)のテーマは、私たちのシンフォニーの旅(JTTA)においても重要なテーマだと位置づけられている。

「象徴を用いつつ象徴を超えて真理へと導く」ことは、「非二元性の形而上学を、象徴からなる知覚の世界における新たな生き方のガイドラインへと統べる手法」だといえる。

そのカリキュラムは具体的には「特別な関係性」を赦しの教室として用いることで実施されることになるが、これについては、後のほうでさらに詳しく論じることとなる。

変化は「恐れることなく受け入れられるペース」で

私たちにはこの世で何らかの行動が求められているわけではない。ただ、これまでとは違う見方をするよう求められている。

そしてその改変は「段階を踏んで」だ。

「一足飛びに天国の懐の中に飛び込むということはしません。愛への恐れがまだ強すぎるからです。」とワプニック先生。

私たちには、忍耐強い教師(イエス、聖霊)と段階的な学習システム(ACIMテキスト、ワークブック、マニュアル)が必要だ。そして「恐れることなく受け入れられるペース」で進んでいくことが肝要だ。

その結果、分離と相違の形態を超えて「一なるものとしてつながっている一体性」(T-25.Ⅰ.7:1)へと移行する。

聖霊が見る通りに見て、聖霊が理解する通りに理解しなさい。」(T-5.III.11:6)

「聖霊が見る通りに見る」とは、世界を心の投影として見ることを指す。そしてそれを、イエスは最初の心の選択に立ち戻る手段とするよう教えている。

すべては想念&聖霊の想念を分かち合う

…この世界は想念からなる世界だという…」(T-5.I.1:14)

あらゆるものは、何らかの考えである。」(T-5. I.2:4)

冒頭でACIMテキストにおける聖霊の擬人化表現について触れたが、本節の終盤でもワプニック先生は、19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーの代表作『意志と表象としての世界』を引き合いに出し、「自己も世界もすべては考え、想念」であると述べ、イエスや聖霊を「人として捉えないように」、また「私たちの質問に答えたり人生の諸問題に介在するような存在として見ないように」と、クギをさしている。

聖霊とは癒しの考えである。この考えは、想念であるから、共有されるにつれて増加する。」(T-5.III.2:1-2)

ワプニック先生は、「イエスは、想念は与えれば与えるほど強くなると主張しています。何かについて話せば話す分だけ、それが真実か否かに関わらず、私たちはその考えを信じるようになります。」と説明されている。

愛を与えるなら、自分は愛の存在だという自覚が強まり、一方で攻撃するなら(それは、自らの罪悪感を他者に投影しているのだから)、自分を罪深く感じるということなのだ。

物質であれば与えればなくなる。しかし想念は、与えられ分かち合われることで強化される。

したがって、この世の物事を表面上だけでなく、おしなべて想念として捉えることが大事だと強調されている。

ちょこっと感想

私は「聖霊」という存在になじみがなく、最初は何となく羽根があってふわふわ飛んでいる小さいやつを思い浮かべてしまった。

今は「聖霊」に慣れたけれど、心のなかの「本来の自分」と考えた方がしっくり来るかな。

つい困ったことがあると「聖霊さん、どうにかお願いします、今回だけでも」と今も言いたくなるけど、それはまったく見当はずれだ。

聖霊の性質に「静か」という言葉が何度か出てきた。

つい事が起こるとテンパってしまうけれど、心を静めてどんな時でも聖霊さんに照準を合わせられるようになりたい。

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