『Journey through the Text of ACIM』(37)-進捗と5章前半へ

2020-07-07

『Journey through the Text of ACIM』-わが“旅”のようす

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、“私の旅”は、5章「Healing and Wholeness(癒しと全一性)」の前半をうろうろしている。

生家に帰省して以来『JTTA』というよりACIMそのものと自分のつながりがぼんやりしてしまった。モチベーションが下がったまんまだ。ギックリ腰をこじらせてしまい、まだ体調がすっきりしないのも一因かな。

こういう時は、経験上ACIMに出会うきっかけとなった『神の使者』から始まるゲイリー・レナードさんの著書を読むのが一番なのだけど、まだがっつりACIMの世界に戻りたくない気もする。

5章の概要

さて、5章「Healing and Wholeness(癒しと全一性)」は節立てでいうと、以下の構成だ。

5-0 Introduction(序論)

5-1 The Holy Spirit(聖霊)

5-2 The Atonement Principle(贖罪の原理)

5-3 The Ego’s Fear of the Atonement Principle(贖罪の原理に対する自我の恐れ)

5-4 Guilt(罪悪)

5-5 The Decision for Forgiveness(赦しを選ぶ決断)

5-6 Jesus(イエス)

5-7 Closing(結び)

今回はページ数でちょうど半分の5-4まで見た。

Introduction(序論)―①「大フーガ」のはなし

さて、序論内容へ。

4章で自我を題材にしたのに続き、5章では聖霊を扱う。テキスト5章で初めて「聖霊」が登場するのだ。

ここでは本題に入る前に2つのトピックについて言及されている。

ひとつめは、ベートーヴェンの「大フーガ」を引き合いに出した自我と聖霊のはなし、2つめはACIMテキストで用いられている言葉のはなしだ。

ワプニック先生は音楽がとてもお好きなようで、時々音楽に例えた説明をされる(残念ながら音楽に詳しくない私にはぴんと来づらいが)。

「コースを始めて心の中の自我と聖霊の戦いの場を掘り下げたとき、私は『大フーガ』を思い出しました。」というところから話は始まる。フーガとは簡単にいうと、2つ以上のテーマが同時に演奏、展開される音楽形式だという。

リビングルームの床に寝転がって「大フーガ」を聞いた時の思い出が描かれている。

「演奏が始まると、まるで部屋がぐるぐる回って本棚から本が落ちてくるかのようでした。それは本当にカオスな経験でした。」

ワプニック先生は、「大フーガ」の始まりがアグレッシブでまるで自我の混沌の法則を表現しているようだと述べ、「大フーガ」の混沌とした部分を「自我」に、後の穏やかで優しい部分を「聖霊」に準えている。

そして、幸いなのは、混沌と穏やかさを行きつ戻りつ、最後は穏やかさが混沌に取って代わって輝かしい勝利の調べで終わることで、その逆(穏やか→混沌)ではないことだとおっしゃっている。

つまり、「初めに自我の混沌を通らずして天国にはたどり着けないのだということです。また聖霊の導きなくしては自我の大しけの海を無事に航海することはできません。」と。

そして音楽を引き合いに出した趣旨を次のように述べられている。

天国の優しいメロディの記憶は私たちみんなにある。だがそれが、自我の騒々しさにかき消されている。

ただ、「分離は一度も起こっていない」のだから、そのメロディは今も常に奏でられているということを思い出してほしい、と。

Introduction(序論)―②言葉

序論の2つめのトピック、ACIMテキストで用いられている言葉のはなしは、端的に言うと「テキストの言葉をすべて文字通りに受け取るべきではない」という留意点についての説明だ。

「内容自体は真理として受け入れられるべきですが、テキストに書かれているすべてを文字通り(形態のレベルで)受け取るべきではないと、私は事あるごとに述べてきました。」とおっしゃり、「テキストは科学の教科書ではなく、芸術作品として書かれています。」と加えられている(さらにここでシェークスピアの『オセロー』という作品からの例えが挙げられているが省略)。

ACIMテキストには、文字通りの意味とは異なる象徴表現がたくさんある。

たとえば神について。

「イエスは、神は寂しく不完全で(T-4.VII.6:4,7)、『神の子供たちの“犠牲”を見て涙を流しておられる』(T-5.VII.4:5)と言っています。しかし神は寂しくもなく泣いてもおらず、不完全でもありません。」と例を挙げられている。

これは、神の愛を私たちに語り掛けるように表現したものにすぎない。厳密にいえば、神を人に準える表現からしてすでに違う。

聖霊も神同様に擬人化されている。

聖霊は、私たちが分離という夢を見たとき、その夢に「神の子」としての記憶を持ち込んだもので、聖霊は人のようなものではなく、記憶、概念、考えだと説明されている。

ただ、こうした象徴化は、自我の見方をしている私たちが受け取りやすいレベルでのものに置きかえているのであって、私たちが自分たちを人だと思っているかぎりは有用だ。

さらに、この世での誰かとの間で起こるように思える問題についても、「実際には肉体というものは存在しないので、肉体同士の人間関係というものはなく、人間関係は単に心にある考えの投影に過ぎません。」と説明されている。聖霊については「愛に溢れた存在である以外に何も行わず、癒しさえしない」とも。

ここまでくると、真理に近づく一方で、私たちの通常の感覚からは遠ざかっていく。

自我レベルの視点を取り消すには、まずそのレベルで話しかける必要があるため、擬人化したりこの世のものとして表したりしている。それを文字通りに受け取って混乱しないことだ。

くりかえしになるが大事なのは、ACIMは言葉の文字通りの意味ではなく、形態の奥にある内容の真理を理解すべし、ということらしい。

ちょこっと感想

ワプニックさんがせっかく例えを用いてくださっているが、音楽、聖書、シェークスピア等について素養がないから、わからないものをわからないもので説明することになり理解しづらかった。とくに音楽…。

ベートーヴェンの音楽について説明してくださっていたが、ACIMの説明ならば、だいたいこういうことを言ってるんじゃないかな、と予想できるのだけれど、音楽については想像できず、ネットで調べても文字での解説だと何のことだか…。本筋じゃないから端折ればいいのだけど…。

でも、逆に言えば、音楽、聖書、シェークスピアの素養があれば、もっとこの解説本が深く楽しく学べるかも。

今更だけど、教養ってあるといいなと思った。

「大フーガ」を聞いていたときの、まるで本棚から本が落ちてくるようだったという箇所、びっくりしているワプニックさんが目に浮かんできて可笑しかった。

また、後半のACIMを文字通りの意味で受け取らないこと、という留意点、明示してもらえてよかった。すっきりした。序章ながらこれは意外と重要な記述なのでは?と思う。

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