ACIMワークブック359-神からの答えは何らかの形をした平安である。苦痛はすべて癒され、不幸は喜びに入れ替わる。すべての牢獄の扉は開かれ、あらゆる罪が、一つの間違いにすぎなかったと理解される。

 

2020-06-28

赦せるように助けてください

父よ、今日私はあなたの世界を赦し、被造物をあなたご自身のものとします。私たちはすべてのものを誤解してきました。」(W-pⅡ.359:1.1-2)

罪は不可能です。」(W-pⅡ.359:1.7)

贖われたいと望む私たちが、赦せるように助けてください。心安らかでありたいと望む私たちが、赦せるように助けてください。」(W-pⅡ.359:1.8-9)

「お気に入りのDVD」

昨日ワプニックさん本読みをシェアしている仲間とLINEのやりとりをしていたら、帰省前の自分を思い出した。

生家にまつわる罪悪感と父母への想い(特別な愛憎)に浸っていたが、これは「神との分離」をこの世に投影して見る、私が選んだかたち…。そう、繰り返し好んで見る「お気に入りのDVD」なのだと気づいた。

たぶん、「東京の私」と「故郷で育ってきた自分」というのはどこか解離しているのだ。

東京という場は、他人には踏み込まないのが暗黙のルールだし、みんな自分のことで一生懸命でだれも過去からの履歴を追っかけてこない。だから己をリセットして“新しい自分”を設定しやすい。

それで、私は「故郷で育ってきた自分」にはフタをして普段過ごしている。つまり一方の自分は休眠状態なのかもしれない。

故郷に帰省すると、その眠らせていた自分が揺り起こされる。と同時に付随してる抑圧していたものも浮かんでくる。

私は、ACIMを学習しているつもりで、「東京の私」だけで少々理解できた気になっていたが、実のところまったく身についていないのかもしれなかった。

新幹線で東京に到着してギックリ腰になっていたのは、「故郷の自分」から「東京の自分」へとマインドがしっかり移行する前にボディが東京に着いてしまって、マインドとボディがちぐはぐだった、というのも原因かもしれなかった。

私は他者との分離をゲンジツにしているだけじゃなくて、自分の中でも分離しているのか、やれやれ…と思った。

だが、そもそも真の自己と解離しているのは私だけではない。分離している自分の数が少し増えたからって大騒ぎすることもないだろう。

未だまとまらない

今日は土砂降りのなか、色彩のワークショップに行った。3ヶ月ぶりだった。

腰はまだ痛いけどゆるゆる歩けるくらいには回復した。私が発表するパートもあったから、昨日から今朝にかけて頑張ってパソコンで資料づくりをした。そうやっていると、徐々に「自分」の感覚が戻ってきた。

ワークショップでは、何気ない雑談がとっても楽しかった。

友人はコロナ自粛期間中に、やりたいことの優先順位が変わったという(やる必要がないとわかり、麻雀は止めることにしたと言っていた)。コロナ禍は多くの人に変化や気づきもたらしているようだ。

私はと言えば、今は、ACIMが自分にとってどんなものだったか、私にとっての重要度がわからなくなっている。

何だっけ?

なんでやってたんだっけ?

いま自分がまとまらなくて少し困った気がしているけれど、聖霊さんに意識を向けると…?

まったく困って…いない。ノープロブレム。

むしろ「それぐらいのほうがいい」と言われているような気もする。

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