『Journey through the Text of ACIM』(36)-4章3節「イエス」-「教えることと学ぶこと」

2020-06-06

教えることと学ぶことは同じ

ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の4章「The Illusions of the Ego(自我の幻想)」第3節の「イエス」の見出しの4つめ、「教えることと学ぶこと」について。

まずここで最初に押さえておくべきACIMの考え方は、「教えることと学ぶことは同じ」ということだとある。これはまた「与えることと受け取ることは同じ」という概念にも相当する。これらの概念はACIMのいたるところで見受けられる。

私たちは自分が与えたものを受け取り、受け取ったものを与える。

教えることへの必須要件-心を変えることに伴う恐れと向き合う

良き教師は自らが教える考えを信じていなければならないが、もう一つの条件も満たさなければならない。すなわち、自分が考えを提供する相手である学生たちも信じなければならない、という条件である。」(T-4.Ⅰ.1:4)

こうした良き教師としての姿勢を育むには心を変える必要があるが、変化というのは恐れに通じる。

ワプニック先生は、「この恐れは真の学習に対する私たちの抵抗の根源となるもので、私たちがイエスのコースを学ぶ際にイエスが手助けして取り消さねばならないものです。特に『他者を裁く』という形でのこの抵抗の強さを過小評価してはいけません。」とおっしゃっている。というのは、裁き(judgement)は自我の最大の防御であり、これが分離と攻撃という古い思考パターンをそのままにしておく方便となっているからだ。

分離している者にとって、変化とは常に恐ろしいものである。…(略)…あなたは、自我に何の変化も侵入させなければ平安を見出せると信じている。」(T-4.Ⅰ.2:2,4)

真の被造物としてのあなたを、私があなたに思い出させるとき、あなたの自我は恐怖をもって反応せずにはいられない。」(T-4.Ⅰ.3:6)

教えることと学ぶことには、変化に伴う恐怖への対処が伴う。姿勢を変えるというのは、自我と同一化している無自覚な状態から、決断の主体へ意識を向けることだ。

あなたが心を変えることを拒んでも、分離が起こらなかったという証明にはならない。」(T-4.Ⅰ.4:2)

あなたは分離した自我という夢を見ており、それを土台にした世界を信じている。その世界は、あなたにとってきわめて実在性がある。それについてあなたの心を変えずにいることで、それを取り消せるわけではない。」(T-4.Ⅰ.4:4-6)

かつて自我との同一化を選択した(そして今も選択をしている)決断の主体は、決断を変えることを望まない。心の選択力の中に救済があるのだが、そのことには封印され埋もれてしまっている。

だからこそ、聖霊としてのイエスから教えてもらう必要がある。教えをすべて理解できないとしても、心を開き許容する姿勢が大事だという。

教えるとはあり方を見せること

教えることも学ぶことはかたちの上での現れ方が重要なのではなく、その内容こそが大事だという。あらゆる者があらゆる時間に教えている(cf.M-in.1:6「また、教えるということは不断のプロセスであり、一日中あらゆる瞬間に行われており、睡眠中の想念の中でも続いているということも、同じく強調されている。」)。

何をー

「私たちは自我のシステムの真理だと思っているもの(分離、特別性、どちらか一方)、もしくは『神からの分離は一度も起こらなかった』という聖霊の贖罪の原理か、そのどちらかを教えています。」(ワプニック先生)

心を癒すという私の目的を共有してくれる献身的な教師たちを、私は必要としている。」(T-4.Ⅰ.3:7)

イエスは献身的な教師たちを必要としている。私たちも教えることが求められている。

そしてその方法としてワプニック先生は、「この教えはお手本を示すことによって行われます。私たちは、イエスのコースについて講義をしたり本を書いたりして教えるのではなく、実際にあり方を見せることで教えます。」と強調なさっている。

学習する者のこの世での使命

あなたの使命はきわめて単純なものである。あなたには、自分が自我ではないということを実証するために生きることが求められている。…」(T-4.VI.6:2-3)  

「これ以上単純にできるでしょうか。」ワプニック先生はおっしゃる。

「繰り返しますが、このコースを形態のレベルで教えることも、世界平和を達成するために素晴らしいことをすることも求められていません。確かに私たちの肉体はここで何かをするでしょう。何をするにしても静かな平安からなされるものでなければなりません。」

さらに「イエスが求めているのは、私たちが自我ではないと示すことです。怒り、怯え、不安を抱え、憂鬱で、いずれ病気になって死ぬ分離した罪深い個ではないと、そのあり方によって明らかにすることです。」と続く。

また、「私たちが本当に心穏やかで幸せだ(peaceful)と感じている度合いに応じて、ACIMが真実だと実証します。」とある。

ということは、peacefulでいることがACIMのあり方を示す=教えることなのだ。

動機づけるもの

「最後になりますが、正しい選択を動機づけるものとは何でしょうか」とワプニック先生。

学びと、学びたいと思う気持ちは、不可分である。あなたが最もよく学べるのは、自分が学ぼうとしていることが自分にとって価値があると、自分で信じているときである。」(T-4.V.5: 5-6)

ワプニック先生は、「イエスの課題の一つは、教えていることを学びたいと動機づけること」としつつ、「自我の個別性と特別性の道筋は痛みにつながるだけだが、イエスの赦しの旅は私たちを平安へと導く」ということを最も大事なこととして心に留め置かせようとしているのだという。

感想

この素晴らしい教えは、机上で学ぶことはできない。やってみて習得する類のものなのだ。それがシンプルだけどとても難しいことは体験済みだ。

自分を変えることを迫るACIMと変えたくない私。そこにつきまとう葛藤と恐怖。他者を責めて済ましたい気持ち。

テキスト、ワークブックで学んだはずの自我の想念の幻影が、圧倒的感情を伴ってこの世で現れたときの大パニック。

やっぱりやだよ!恐い。逃げたい。

いっそのことなかったことにしてACIMから離れて、ここでのそこそこの幸せを目指そうか(それが無理なんだけど)。

でも、こうやってJTTAからテキストを勉強すると、またやっぱりこれが真実かな、と思う。

この世の状況は穏やかさ、平安からはどんどん離れますます自我の視点が強まっているかのように見えるし。

あ゛~、ハシゴの下段にある身体、頭だけ上に行きたくて、私、ろくろ首状態。ちぎれちゃいそう(>_<)

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