『Journey through the Text of ACIM』(34)-4章3節「イエス」ー「自我を見ること」

2020-06-04

「私たちはどうやって自我を作り出すことができたのか?」という問い

『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、4章「The Illusions of the Ego(自我の幻想)」、第3節の「イエス」の見出しの2つめ「自我を見ること」について。自我を見ることについてはこれまでにも論じてきたが、これが誤りを認識して正すことの導入部分にあたるので、何度も繰り返すという(ワプニック先生)。

イエスからの口述をヘレンが書きとっている時、ビルが発したという次の根幹に関わる質問から始まる。

「私たちはどうやって自我を作り出すことができたんだろう?」

テキストに掲載されているイエスの回答は次のようなものだ。

いったい心はどのようにして自我というものを作り出せたのか、と尋ねるのはもっともなことである。実際、それはあなたが尋ね得る最良の問いである。しかし、過去の観点からその問いに答えることには意味がない。なぜなら、過去は問題にならず、もし同じ誤りが現在に繰り返されているのでなかったなら、歴史は存在していないはずだからである。」(T-4.II.1:1-3)

ワプニック先生によれば、この問いは「疑問文に見せかけた宣言」なのだという。

自我とは、実際には起こっていない神からの分離をリアルだとする信念にすぎない。

私たちは現在も自我を選択し続けている。にもかかわらず、「なぜ作ったのだろう」などと私たちの立ち位置から問うことはできない。これは自我をリアルにした上で、その前提に相手を加担させる、いわば“ひっかけ問題”のようなものだという。

そして「真の答えは、自我はそもそも非現実であり、ゆえにその発端など説明できないという認識にあります。」と説明されている。

続くテキスト引用文。

イエスは「あなた自身の心の状態が、自我がどのように作り出されたかを示す良い例である。」(T-4.II.3:1)としつつ、すっかり神の子としての自己を私たちが忘れ去っていることを指摘し、

これが現在において起こるのなら、過去においても起こったからといって、驚くに足らないのではないだろうか。驚きとは、馴染みのないものに対してなら妥当な反応だが、かくも執拗に起こり続けることについては、およそ妥当とはいえない。」(T-4.II.3:4-5)と述べる。

この部分、おもしろいと思った。シニカルなユーモア(!?)を感じた。

信念とは自我の機能であり、あなたの起源が信じるかどうかの対象とされている間は、あなたはそれを自我の観点から眺めている。もはや教えられる必要がなくなったとき、あなたは神をただ知るのみとなる。」(T-4.Ⅱ.4:8-9)

ワプニック先生は「これもまた問題の核心」とおっしゃっている。テキストの文言のままの繰り返しになるが、「信念とは自我の機能」であり、信じるかどうかテーブルに乗っているということは、すでに自我の観点から見ているのだ、やがて理解できる域に達したときには「神をただ知るのみとなる」という指摘…。さすが聖霊。ニンゲンにはなかなか書けない文章だなと思った。

無自覚の間違いを正すには

あなたは分離した自我という夢を見ており、それを土台にした世界を信じている。」(T-4.I.4:4)

これが私たちの現状だ。

私たちは今も、ほとんど無自覚に自我を選択している。

自我の間違った信念を取り消すには、心を変える必要があるが、自我とほぼ一体化してしまっている私たちが自分たちだけで誤りに気づけない。

催眠術にかかっている人が、かかったまま“催眠術にかからない方法”を見つけ出そうとするようなものだ。

だからこそイエスは、自分にゆだねてほしいと私たちに要請している。私たちが決めて委ねなければイエスは私たちを助けようがないから。

あなたが自我を作り出してしまったからには、自我が自らを守ろうとするのは自然なことだが、あなた自身が自我の法則を信じているのでない限り、あなたがそれに従いたいと思うのは自然なことではない。自我の起源のゆえに、自我にはそれを信じないという選択ができない。あなたの起源のゆえに、あなたにはそれができる。」(T-4.I.5:5-7)

ここでイエスは自我が自らの存続をかけて自信を守ろうとするのは自然だが、私たちと自我とはひとつのものではない、ただ私たちが信念をそこに置いているだけだということを明らかにしている。

これまで自分が考えたことで、智識に対立するものはすべて手放そうという思いは、今まで一度も実際にあなたの心に浮かんだことがない。」(T-4.III.7:1)

これは、元々はヘレンのためのメッセージだったというが、今テキストを通し私たち全員に向けられている。

あなたは幾千もの恐れの小片をもち続けており、それが聖なる存在が入ってくるのを防げている。」(T-4.III.7:2)

光を遮断するためにあなたが作り出す壁を、光は通過できず、また、光はあなたが作り出したものを決して破壊しようとはしない。」(T-4.III.7:3)

私たちが自我を選んでいることは、現在進行形だ。

今も自我の防御壁を作り守っているのだ。イエスはそのことに気づき、これ以上その選択を続けないようにと言葉を変えて繰り返し要請している。

ワプニック先生はここで「光が自我と戦うものではないことに注意してください。」と述べ、「真理と贖罪は幻想においては何もしませんし、イエスも聖霊も自我の壁を壊すようなことはしません。」「壁を置いたのは私たちなのですから、私たちだけがそれを取り除けるのです。」と、おっしゃっている。

自我と戦ってそれをリアルにしてしまうのではなく、正しい選択をすることだ。

自我は幻であり光の欠如だ。イエスはそこを照らす。

照らされればその想念はなくなる。

原因が消えれば、結果として映されるこの世は変わる。

イエスに対する世間の誤解

私は、もどかしさの中ではなく、愛の中で待っているのだから、あなたは必ず本気で私に頼むようになるためらだろう。少しの躊躇いもない一つの呼びかけさえあれば、それに応えて私は来るだろう。」(T-4.III.7:8-10)

イエスへの呼びかけがはっきり明白でなければ、イエスは「来ない」(もちろん本当は私たちのほうがイエスのもとへ行くのだが)。

この世で知られている伝統的な宗教上のイエスは「寄せ集め」だという。いわば「ごちゃまぜの救世主」だ。

私たちがそうしたイエス像を仕立て上げてしまったのは、イエスに救済を求めるには個としてのアイデンティティを明け渡すことが必須なのに、これを保ったままその自我とひとつになったアイデンティティを満足させる“解決法”をイエスに要望しているからだとワプニック先生は解説されている(おそらく)。

こうした明白ではない呼びかけのもとでは、イエスはそれに応えることはできない。

一歩前進してイエスは私たちすべてを批判することなく愛しているのだとわかったとしても、その愛は私たちを「個別に」愛するものだと思っている。

ワプニック先生は「要約すれば、キリスト教のイエスはACIMで描かれているイエスよりはるかに好まれます。というのは、(キリスト教のイエスは)間違いをリアルにすることによって、私たちの特別な自己もまたリアルにしてくれるからです。」と説明されている。

本当に求めているものは何なのか

注意深く見つめて、あなたが本当に求めているものは何なのかを見極めなさい。」(T-4.III.8:1)

とどのつまり、私たち(私)は、個としての自分を手放したくない。分離した唯一無二の私という存在をどうにか守りたいと思っている。

しかもその思いをイエスからは隠しておきたい。しかし、イエスのほうでは隠さないでいてほしいと思っている。

イエスは私たちを真に助けたい。

分離した自分への執着という同じライン上には、特別性-他者は敵(投影)-神との分離-有罪-罰がある。

かけがえのないものに思えていても、このラインの先には、罰-苦痛があるだけだ。

それに気づいてほしい。

だからイエスは私たちに「本当に求めているものは何かを見極めなさい」と要請する。

自我の罰か、聖霊の赦しか。

そのようにして、あなたが行ったことや、行わないままにしたことを誠実に調べてみなさい。そして、神の心と共に考えるために、あなたの心を変えなさい。これを行うのは難しく見えるかもしれないが、それに抗して考えようとするよりもずっと易しいことである。」(T-4.IV.2:5-6)

これが、イエスが話す「報酬」のひとつだという。

イエスに従えば、もう真実と戦う必要はなくなり贖罪から防御したり罪悪感から身を守ったりする必要もなくなる。

経験してわかることだが、ワプニック先生は人生がずっと生きやすくなるのだと説明されている。

ざっくりまとめ、ふりかえり

そもそも「イエス」という存在に親しみが少ないために理解しづらい点があるかもしれない。ここで「イエス」とされている箇所は、5章では「聖霊」として表現される。そちらの方がまだ理解しやすいかな。

初めは細かく見ていたが、途中からまたえらい長文になると思いざっくり要約しだした。

ワプニック先生の解説をまとめているはずなのに、気づくと自分が理解しやすいように表現を変えたくなる。意味を正しくつかんで変換できれいればいいけれど、意味そのものを変えてはまずい。えらい急ぎ足でやっちゃった、大丈夫かな。

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