2020-05-01
前回のちょっこっと感想
昨日感想らしいことを書く前にエネルギー切れた。
改めて振り返ると最もインパクトが強かったのは、ワプニック先生の言葉「彼ら(学習者である私たち)はその形而上学は習得するかもしれませんが、ほとんど機械的に自我の込み入った反応を繰り返し、依然としてどうしたら判断や特別性を手放せるか、あるいは本当は無であることに対しどうしたら動じないでいられるかは学べていません。」というところ。
まさしく。
頭ではACIMを理解できるし美しいと思う。でも、それはACIMを漠然とどこかにあるお話として捉えているのであって、「では、今から個としてのあなたを召し上げます」と言われたら、パニクるだろう。
理屈を学ぶこととともに実践が大事だと重ねて思う。これがやっぱり恐い…
思うように実践できなくても、方角を間違えなず諦めないことが大事かな。
自我の防衛戦略の概論
さて、4章2節「贖罪の原理に対する自我の恐れ」の最後のパートは、「自我の戦略」について。
私たちが犯した重大なミスチョイスに気づかせないようにするために、自我は戦略を構築し実行している。
そもそも自我の究極のモチベーションは、自我自身の存続だった。生き残りをかけているのだ。
そのためには、私たちが本来の心に立ち返ることなく、心に自我を選ばせた状態を維持しなければならない。
そこで、神からの分離に基づく罪・罪悪感が心にあるという前提で、恐怖を植えつけ心に近づかないようにさせている。それによって私たちは本来の心をなくした(mindless)状態で、真の問題ではないところに意識を向けることとなる。
「しかし、法とは、立法者が信じている体系の存続を保護するために制定されるものだということを思い出しなさい。あなたが自我を作り出してしまったからには、自我が自らを守ろうとするのは自然なことだが、…」(T-4.I.5.4-5)
テキストからの引用文が途中で切れているが、解説本のほうもこうなっていた。
ワプニック先生によれば、ここが「自我の防衛戦略の総論」にあたる部分だという。
この自我戦略の成否は、私たちの心の選択にかかっている。だからこそ、自我にとっては心をmindlessの状態にしておけるかどうかが成否を分けるのだ。
肉体的欲求を満たすことが“肉体信仰”を深める
「肉体の欲望の起源は、物理的なものではない。自我は肉体を自らの家と見なし、肉体を通して自らを満足させようとする。しかし、それが可能だという考えは、心による決断であり、心は、何が本当に可能なのかについて完全に混乱をきたしている。」(T-4.Ⅱ.7:7-9)
この解説には、肉体的欲求と肉体とは関係ない、肉体的経験は心で生じると書かれていいた。そうなんだろうけど、「ご飯を食べないと生きていけない」と思っている私にはなかなか受け入れがたい。
肉体的欲求を満たすことは、心の中の自我そのものを満足させ、「分離した存在が心をなくした肉体に宿っている」という思考を強化するという。
自我はともかくすごい潜在力をもつ心の存在を私たちに気づかれてはならない。そのため、心をmindlessに保ちつつ肉体のニーズや問題に向けさせるのだ。
この世の目的ー表向きと裏
この自我が物理的な世界を作った表向きの目的は、神の懲罰と避けられない死から私たちを守ることだった。
しかし、実際のところ肉体は死ぬ。
だけどmindlessになっている私たちはそもそもの触れ込みを忘れているので、自我に正当なクレームを入れることができなくなっているらしい。
「肉体は、自我が選んだ自我の住処である。それは自我が安全と感じる唯一の自己認識である。自我にとっては、肉体の脆弱さ自体が、『あなたが神からのものではあり得ない』ということの論拠として最高のものとなるからである。これが、自我が熱心に後押しする信念である。」(T-4.Ⅴ.4:1-3)
裏目的というか主目的は、肉体の脆弱さをもって「だから本当は頼みにできる神などいないのさ」「この世に自力で存在しているんだ」という論拠として、誤った信念を強化させているのだという。
自我の論拠は二枚舌
「だが、自我は肉体を憎んでいる。なぜなら、それを自らの住処とするに充分なものとして受け入れがたいからである。ここで、心は実際にまごついてしまう。心というものは本当に肉体の一部であり、肉体が心の保護者だと、自我から教えられているというのに、その上でさらに、肉体は心を保護することはできないとも教えられるからである。」(T-4.Ⅴ.4:4-6)
T-4.Ⅴ.4のあたり全部なるほど~と思う。全部書きたいところだけどざっくりまとめて。。。
この後「私に頼りなさい」と言う自我に対して、心は「それ意味ないんじゃね?」とうすうす気づく。
そこで、自我は“伝家の宝刀”を抜く。
「疑問自体忘れてもらいましょう」戦術だ。
「自我はこれに対する真の答えをもちあわせていない。もともとそれに対する答えなどないからである。しかし、自我には一つの典型的な解決策がある。心の自覚の中からその疑問を消し去ってしまうのである。」(T-4.Ⅴ.4:9-11)
ここに自我の二枚舌が表れているという。
私たちの心はmindlessで本当の源とのつながりを失っている。すなわち寄る辺ない状態だ。
「私たちは来る年も来る年も次の10年もまたその次の10年も、100年後もさらに次の100年後も、この世をよいところにしようともがきながら人生で躓き続けるのです。」とワプニック先生。
唯一の解決策は「贖罪の原理」を受け入れることなのだが…。
「忙しくさせる」という戦術
「本題からそれた問題に関わることによって、自我は真に問うべき質問を隠し、それを心の外に置いておきたいと望んでいる。肝心でないことに忙しく関わるという自我に特有の態度は、まさしくその目的のためである。解決できないように仕組まれた問題に没頭することは、学びにおける進歩を妨げるために自我が好んで使う手だてである。」(T-4.Ⅴ.6:4-6)
「肝心でないことに忙しく関わる」「解決できないように仕組まれた問題に没頭する」という自我の手立てが、心をmindlessの状態をキープし、選択し直す能力があるということを学び損ねさせているという。
よく「忙」という字は「心を亡くす、と書くんだよ」と言われる。日本人的には「忙しい」は良い意味合いで使われることが多いが、ACIM的には異なることになる(←ここは自分の意見)。
決して尋ねられない問い
「しかし、これらの陽動作戦を展開する者たちによって決して尋ねられることのない一つの問いは、『それは何のためのものか』というものである。これこそが、すべてのことに関連してあなたが尋ねることを学ぶべき質問である。」(T-4.Ⅴ.6:7-8)
私たちが自我を選んでしまったというそもそもの問題を、自我は肉体と世界の問題に巧妙にすり替え、その解決に私たちを奔走させる。
これが、自我が張り巡らした煙幕だ。
「『それは何のためのものか』という疑問を持つとき、その煙幕を透かして見ることができます。」とワプニック先生。
つまり自分では明確な目的があると思ってやっていることでも、「ここでのすべてのものは、心が分離に代えて贖罪を選ばないようにしているのです。」という。端的に言うと、この世の目的は「私たちに贖罪を選ばせないようにすること」なのだ。
これを理解しないと、問いに対する真の答えは得られないとおっしゃっている。
学びは心の中でしか進まない
私たちの意識を心からそらそうとするものは何であれ、心の再選択に目を向けさせないようにするものだという。「奇跡に難しさの序列はない」のは、奇跡が自我の思考システムをまるごと修正するからだ。
イエスは、この世で起こっているかに見える問題(世界のこと、身体のこと)は内なる罪悪感の投影に過ぎず、「問題」をそのことを学ぶ教室として使うように要請しているのだという。
私たちがこうしたことを学ぶには教師が必要で、それがイエスであり、4章3節は「イエス」がテーマとなる。
感想というか
今回は対応するテキスト(4章)をしっかり読んで、と思っていたけれど、やっぱり時間が足りなくなってJTTAの引用箇所しか読めなかったが、このテキストの自我の説明すごい臨場感!?あると思った。
ほぼ自我に乗っ取られたまんまで自我の思考システムを学ぶのはなかなか興味深い。この解説本と格闘している私はだれ?と思った。「そしてこれは何のために?」
(長文すみません。読んでくださってありがとうございます)