『Journey through the Text of ACIM』(31)-4章2節 贖罪の原理に対する自我の恐れ ②

2020-04-30

4章2節 贖罪の原理に対する自我の恐れ ① の続き

まず自分の言葉での復習

ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』4章2節のざっくりまとめに入る前に、自分の言葉で復習。。。(厳密さはユルイ)

 

贖罪とは、罪は幻想であると認めて赦すこと。贖罪の原理とは「the separation never happened.(贖罪の原理:分離は一度も起こらなかった)」を受け入れること。

今、それが起こっているように見えるのは、私たちの決断の主体の選択による。

たとえば、選挙で「自我党」と「聖霊党」があって、その昔私たちが個々の存在を保証するという政策を掲げた「自我党」を選んだ。

その後選挙は行われず、今も「自我党」が政権を取っている。今やかつて選挙があったことも忘れ去られ、もう一方の「聖霊党」のことは昔語りの隅に追いやられている。

与党「自我党」は支持を失うことを恐れている。

なぜなら「自我党」はそもそもが、利益が出るよと会員を募ってだまし続けなければならない「架空の投資詐欺」みたいなもので虚構だから。支持を得続けしくみを回転させ続けなければ、嘘とばれて破綻してしまうのだ。

「自我党」は、神からの分離は事実で罪・罪悪感・恐怖は正当としつつ、「そこから助けられるのはわが党のみ!」「私たちは、個々の存在と、怒りの報復に燃えた神からの逃げ場を保証します!」と声高らかにマニュフェストを叫ぶ。

「自我党」は選挙民(私たち)が心を覗いて他の選択肢があるなんてことを気づかせたくない。だから、心に意識を向かわせないようたえず「目くらまし」が必要だ。

それがこの世で次々に起こる「問題」=解決を求めるもの。

そして、「あなたには『特別の何か』と『特別の愛』が必要…。」と耳元で囁く。

「そうそう、もっと、もっと…」

自我がぜったいに避けたいこと

これが、“発展”という夢を見ながら回し車みたいな世界で繰り返されていることだ(発展は悪くはないが、真の問題とその解決とはずれている)。

くりかえしになるが、自我の本質的な恐れとは、神の子が自分の選択ミスに気づいて、一なる子(the Sonship)を思い出すという選択をし直すことだ。

これは自らの存在の終焉につながるので、自我は「これだけは避けたい」と思っている。それが、自我のモチベーションだという。

自我とは、矛盾そのものである。あなたの自己と神の自己は、まさに相反するものである。両者は、その源、方向、成果において、正反対である。霊は知覚できず、自我は知ることができないので、両者は根本的に和解不可能である。したがって、両者の間にコミュニケーションはなく、その可能性もまったくない。」(T-4.Ⅰ.2:8-12)

自我とは、本来の神なる自己とは相反するので矛盾そのものだという。

自我と霊が「正反対」とされているのは、対抗しているのではなく相互排他的だからだ。霊は自我のことは知らない。イエスはくりかえし「自我と戦うことなかれ」と私たちに言っているが、それは自我をリアルにしてしまわないように、ということだ。

ここで、前にもブログに書いたが、ユングとACIMのものの見方の違いが出てきた。

ユングは、神とつながっている自己も、自我もゲンジツと捉え両者を和解させることを提唱したが、ACIMは神の自己(あらゆるもの)と自我(無)は調和できないと説いている。

学習者の恐れが学習のハードル

霊は教わる必要はないが、自我にはその必要がある。学びは、究極的には恐ろしいものとして知覚される。なぜなら、学びは自我を破壊はしないが放棄することへと導き、霊の光に至らしめるからである。」(T-4.Ⅰ.3:1-2)

自我は破壊されず消えるのみ。これがACIM学習者にとってのハードルだという。

ワプニック先生は「彼ら(学習者)はその形而上学は習得するかもしれませんが、ほとんど機械的に自我の一筋縄ではない反応を繰り返し、依然としてどうしたら判断や特別性を手放せるか、あるいは本当は無であることに対しどうしたら動じないでいられるかは学べていません。」と言い、だからこそこのテーマは繰り返すことが必要だとおっしゃっている。

これが、自我が恐れずにはいられない変化である。…私は決してあなたの自我を攻撃しない。」(T-4.Ⅰ.3:3,5)

真の被造物としてのあなたを、私があなたに思い出させるとき、あなたの自我は恐怖をもって反応せずにはいられない。」(T-4.Ⅰ.3:6)

私たちはここで、自我と一体化しているがために、霊としてのアイデンティティーを思い出すこと=自己を失うことのように感じられ、恐怖に苛まれる。だから贖罪の原理がACIMの根幹なのにも関わらず、これを本当の意味で学ぶことは非常に難しい。

最初の段階で、贖罪の原理を学ぶなかに「根幹的な恐れ」が内在していることをしっかり押さえておくことが必要だという。恐れるのはあたりまえなのだ。

“自我依存症”を病む

自我の思考体系を切り崩していくことは苦痛として知覚されるに違いないが、そうした知覚はおよそ真実ではない。幼児はナイフやはさみを取り上げられたなら激しく泣きわめくが、取り上げられなかったなら、自分自身を傷つけかねない。これと同じ意味で、あなたはまだ幼児である。あなたは真の自己保存の感覚をもっておらず、自分を最も傷つけるであろうものが自分に必要なものだと決めてしまいがちである。」(T-4.Ⅱ.5:1-4)

ここを読んで私は、「私たちはみな自覚症状がない病で、それは“自我依存症”なんだな…」と感じた。

そしてその依存を強めてしまうものが私たちを「強化してくれる」と信じている。

それが、「特別性」と自分の内を見ないようにする「他者投影」だ。

「私たちは私たちが“自分だと思っている自分”を死に物狂いで守りたがっており、それを脅かすものには即激しく反応」し、「特に、教えの本質によって、この特別性を奪ってしまう危機感を抱かせるものに抗い戦います」と説明なさってる。

神の関心を引きたい自我

自我とは、心が抱く『自分は完全に自立している』という信念である。自我は絶えず霊からの承認を得ようとし、それによって自らの存在を確立しようとしているが、そうした試みは徒労である。」(T-4.Ⅱ.8:4-5)

智識の中に居る霊は、自我に気づいていない。霊は自我を攻撃しない。ただそのようなものをまったく思い描けないだけである。」(T-4.Ⅱ.8:6-7)

自我は神の関心を引こうとしている。だから聖書を書きその中で神を描き「私たちを創造し、愛し、殺し、救う」と語った。

これは自我視点の間違ったストーリーで、ワプニック先生は「ACIM学習者が私たちの源は私たちのことを知らないと理解しておくことがとても重要です。」とおっしゃっている。

神(霊)は自我を知らない。これは自我にとって非常に恐ろしいことだ。自我も霊に気づいていないが、何かに拒絶されていると感じその脅威の矛先を「決断の主体」に向けているという。

自我が差し出す報奨と、問題

自我は、あなたがこの信念をもち続けることに対し、何らかの報奨を提供しなければならない。自我が提供できるのは、自我自身の誕生から始まり、自我の終焉によって終わる、一時的な存在という感覚だけである。」(T-4.Ⅲ.3:3-4)

自我の存続は、分離を真と神の子に信じさせておくことだ。そこで用いる報奨が「個としての一時的な存在」だ。「正当性を信じ続けるなら、個として安全に守られる、天国にも行ける。従わなければ、地獄行きだ。」と自我は言うが、これはもちろんウソだ。

現状下での問題は、私たちが自我と一体化したあり方をしているので、「永遠の実存」としての自己には関心が向かないということだ。

自我とは、神の子の信念(思い込み)に過ぎない。思い込む側(=決断の主体)がキャスティング・ボードを握っている。

闇があると思い込んでくれれば、闇は影響を持つ。だから、自我は思い込みの世界に私たちを閉じ込めておきたい。

闇と隠蔽へのあなたの信念こそが、光が入ってこられない理由だということを、ここで繰り返す必要がある。」(T-4.Ⅲ.5:2)

そして、この信念は、罪悪感と罪の世界という二重の盾によって守られている。

自我の“情報統制”とこの世の目的

あなたが自我を守るためならどれほどの警戒を喜んで張り巡らせてきたか、そして、あなたの正しい心を守るためにはどれほどそれを怠ってきたかを、考えてみなさい。狂気の者でなくて誰が、真実でないものを信じ、その後、真理を犠牲にしてまでもそれを守ろうとするだろうか。」(T-4.Ⅲ.10:3-4)

自我は何を自らの自覚の中に入らせるかについて最大限に警戒しているが、これは均衡のとれた心が自らを保つ方法ではない。」(T-4.Ⅴ.1:3)

この世で私たちは正気を失っている。

自我は神の子が正気を取り戻すことを恐れ、戦時下の国と同様に、自らに都合のいい情報だけを流す。

「自我は聖霊の真理を幻想に持っていき、聖霊を心ない(mindless)非現実の世界に巻き込み分離を現実にすることによって、神の子が思い出さないようにする以外に選択肢はありません。」(ワプニック先生)

自我は決断の主体(心)に何が何でも、私たちを近づけたくない。それがこの世界の目的だ。

くりかえし言及される、ACIMで本当に伝えたいこと

解離した後は、心はすべての真に自然な衝動を否定する。これは、自我が一個の分離した存在だという理由からではなく、あなたがそのような存在だということを、あなた自身が信じたいからである。自我とはこの信念を維持しておくための仕組みだが、それでも、自我の持続を可能にするのは、その仕組みを使うというあなたの決定のみである。」(T-4.VI.4.3-4)

自我とは私たちの一部であり、自我を生じさせたのは心でなされた決定に他ならない。私たちが自我を信じるという決定をしたがゆえに自我は影響力を持つ。

したがって、私たちにはその影響力を修正する力(心の決断力)がある。

ただ、自我は自我への信念を守るための巧妙な仕組み=戦略がある。それが4章2節後半のテーマとなる。

 

ひーっ、端折り方が中途半端で、またまた長文になってしまった。

う~ん。いかがなものか。。。

感想… 自我の思考回路でこの世を見ると、よく見える。

4章2節 贖罪の原理に対する自我の恐れ ③へつづく)

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