2020-04-29
JTTAざっくりまとめに手こずるわけ
去年4月に参加したゲイリー・レナードさんのワークショップで出会った方々と後日お茶をしたことからスタートした、ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の“私の旅”…。
時間かけつつ各章を巡っている。去年は“膨大な”時間をかけた。そうできる環境がたまたまあったからで、そこには聖霊さんの計らいや導きがあったかどうかわからないけれど、得がたい貴重な時間だった。ありがたい。
私は自分の読書備忘録としてこのテキスト解説本のざっくりまとめをしたいと思いブログをまとめの場としているけれど、最近ますます手こずっている。
それはこんな理由から。
この本(JTTA)は、ワプニック先生が、「これはワーグナーが音楽で行ったこと、つまり主テーマを堅持しつつ細やかに音色を変えて伝えるということと同じです」と紹介されているとおり、ワプニック先生のACIMテキスト「シンフォニー」だ。テキストを引用しつつ主テーマをくりかえし様々な角度から、様々な表現を用いて書かれている。
私はこの“シンフォニー表現法”がやや苦手。音楽的センスがないからかなぁ。
私は対象を「固めて」、それを愚直に繰り返したい方なのだ。だから『神の使者』ばかり何十回も読んでいる。
で、そんな私がJTTAを自分なりにまとめようとすると、情報量が多すぎてどうしてよいのかわからなくなる。
自分流でやると、せっかくの繊細な味わいを「ばっさり」なくしちゃってて。。。
一方、ちゃんと味わおうと思うと「全部」になっちゃう。
いっそのことと、むぎゅっ~とまとめたら、
God is. Nothing happened.(神はある。何も起こっていない。)
…で終わっちゃう。これじゃあ意味ない。
長からず短からずポイントをまとめるのが大事だと思うけれど、まとめ方が未だ定まらない。
そして、今世の今の視座から「私」というフィルターを通して見えている景色のうち文字にできる部分だけ、、となると、JTTAに書かれていることをかなり押し下げているだろうなぁ、と思う。仕方ないけど。
つまり言いたいことは、本書のすばらさしさは、微妙な音色や音調で織りなす音楽を聴くように、書かれていることすべてを味わってこそなんだろうなぁ、、、ってことだ。
4章2節の構成
前置きというか言い訳というか、長くなってしまった。
4章2節「贖罪の原理に対する自我の恐れ」は、前半は「自我の恐れ」について、後半は恐れに対抗するための「自我の戦略」について記述されている。そして「自我の恐れ」は前置き的な部分と内容部分に分かれる。つまり、
①自我の恐れ…本題に入る前書き
②自我の恐れ…内容
③自我の戦略
今日は①をざっくりまとめしたいと思う。
自我の恐れ…本題に入る前書き
「贖罪の原理に対する自我の恐れ」は、4章1節の「贖罪の原理」とともに「コースの教えのベースとなる2つの固有のライトモチーフ」の1つだとされる。
これは「神の子が贖罪を選ぶことに対する自我の恐れ」と言い換えることができる。
学習者が贖罪と贖罪を選ぶことに対して恐れを持っているということは、ACIMの思考システムの根幹をなすという。最初にここを押さえておくことが後の理解につながるため最も重要だと位置づけられている。
ここで欠乏というテーマについて復習がある。欠乏のテーマとは「私たちには何かが欠けている」という思い込みだ。
その「何か」が「具体性」に通じる。
そもそものお話のスタートは、私たちがすべてが満たされていた神なる一体性から離れ、特定のアイデンティティを持ったと信じた瞬間(the unholy instant:神聖ならざる瞬間)で、そのとき「自我」が生まれた。
自我の恐れとは、神の子が抽象性を選択し直せば、自分は消えてしまう、という恐怖だ。
「自我の幻想はきわめて具体的であるとはいえ、心はもとより抽象的なものである。しかし心が分裂したときには、心の一部分が具象的となる。」(T-4.VII.1:2-3)
この引用文の後、ワプニック先生は、「意識を『分離の後に心の中に生じた最初の分裂(T-3.Ⅳ.2:1)』と定義づけしたことを思い出して下さい。」と言っておられる。
「具象的な部分は自我を信じているが、それは自我が具象的なものに依存しているからである。自我とは、心の中の、あなたという存在は分離によって定義されると信じている部分である。」(T-4.VII.1:4-5)
この部分、ワプニック先生は少し平たく表現し直して「自我とは、キリストから自立しているかのように見える分離した自己としてのあり方を好む私たちの一部(にすぎない)」と定義づけされている。
「存在も実存も、コミュニケーションに依拠している。」(Existence as well as being rests on communication.)(T-4.VII.4:1)
ここで、語句の用い方に注釈があった。「存在」を意味する語句として「existence」「entity」は知覚(自我)の世界、「being」は智識の世界のものとして用いられている。「being」はテキストでは「実存」と訳されている。
「けれども、存在は、どのようにして、何を、誰とコミュニケーションを行うことに価値があると判断するかについて、具体的である。」(T-4.VII.4:2)
テキストではこのコミュニケーションの具体性から、「特別の関係」へと発展する。
「実存には、これらの区別がまったくない。」(T-4.VII.4:3)
ワプニック先生は「つまり、神、キリストとして知られる分離した存在はありません。」とおっしゃっている。「私たちは、二元的な生物である私たちが理解できるように二元的な名称を用いて神との関係や神ご自身を表現しているのです。」
また表現を換えて「創造主と被造物は互いに区別できるものではありません。」ともおっしゃっている。
そして、「さて、ここで自我の恐れにフォーカスした内容に入る準備ができました」と続いていく。
(4章2節 贖罪の原理に対する自我の恐れ ②へつづく)