できることはある

2020-04-05

ACIMにおける心のイメージ図

昨日、床から立とうとして体をひねったとき、グギッとなった。

痛ててててっ。

ぎっくり腰だ。あ゛~、とくに何にもしてないのに。

体調崩しておられる方多いんじゃないだろうか。負荷がかかると自分の弱いところが表面化しがち。。。(>_<)

昨日ブログに「ユングの心のイメージ」図を載せた。

で、その流れでACIMにおける心のイメージ図も確認したくなり作ってみた。

それがこの図。

もちろん今の自分理解だから、完全ではない。シンプルにしたかったけど、端折った方がいいところとそうでないところ迷った。

そもそもは「小さな狂った想念」というところから始まった。

自ら「神の元を離れてしまった」という思い込みだ。

それが、「とんでもないことをしてしまった」という罪悪感と、「神は絶対に仕返しに来るだろう」という恐怖になる。それはとてつもなく大きなもので直視するなんてできない。

なので、「助けてやる」と言う「自我」の見方を選んで幻想に乗っかる。

それが、「この世」と「肉体」を持った個というゲンジツだ。

絶対見たくなかった罪悪感と恐怖は、否認されて心の内に抑圧されて沈められる。しかし、それはなくなりはしない。意識に上がろうとはたらく。それが投影であり、夜見る夢や、外界においては自らの肉体や外でおこる(認めがたいものなので一般的には、嫌な)出来事、ひととして現われる。

この投影は、私たちが正しい見方である「聖霊」か、間違った見方である「自我」かの選択で、で自我を選んだために起こっていることなので、心の内を見て「聖霊」を選ぶことができれば終わる。

…と、こんなふうなおはなしだった。

重大な感染症は集団的投影!?

私は、ワプニックさんのテキスト解説書『Journey through the Text of ACIM』の3章6節の一文、

「コースは私たちが無意識と向き合わなければ、感染症のように悪化し、最も不幸な結果につながってしまうと力説しています。(The Course emphasizes that when we do not deal with what is unconscious, it festers like an infection and leads to most unhappy consequences. )」が、やっぱり気にかかっていた。

読んだのが、ちょうど2月末、新型コロナウイルスの感染深刻化が本格的に気になりだした頃だったからだろう。もしかしたら言わんとしていることの文脈とはまったく違うのかもしれないけれど、印象づいてしまったのだ。

私たちは近代に入って科学的に急速に発展した。意識主体としての自我も発達した。ワプニック先生は、私たちが「抑圧の名人」になっているとおっしゃっている。

私たちを幸せにするものは外で買うことができる。そうした幻想を喧伝する資本主義とも連動して、心の内に意識を向けなくとも頑張って外から何かをゲットすることで幸せが得られると、みんなで信じようとしてきた気がする。

「抑圧名人」は「投影名人」でもある。

「神との分離」は集合的な無意識の奥底に埋められ熟成され、集団的に投影されたのではないか。

ふと、そう考えた。

感染力が強い死にいたる重大な感染症は、大規模な「分離と恐怖、懲罰の病」の症状ではないだろうか、と。病とはもちろん肉体のことではなく心をさす。

できることはある

話は飛ぶけれど、富山の生家では、父の月命日にお寺さん(浄土宗)から和尚さんが来られて読経していただいている。

母は、和尚さんに「お寺さんで祈祷とかはなさらないの」と伺ったという。すると、どこでだっけ?実際に祈祷をしておられるのだとか。

それを聞いて、この前「この非常時に無力な私―」と思っていたけど、私にもできることがあると、改めて思い出した。

ACIMを少しだけど勉強して、もしこの世が間違った夢だと知っているのなら、、、

そう、赦すことだ。

ワプニック解説本にも「解決策」として提示してあった。

つい感染拡大状況やそのリスク、政治家の対策や他の人の言動に関心が行ってしまうけれど、世の中やひとのことに構う前に、わが心を聖霊とともに見て赦すことだ。

本当に私が「今、心にある罪悪感と恐怖感を手放すこと。まず今私が意識できる範囲で…」「苦しむ必要はない。神の子として祝福されている」と贖罪を受け入れることだった。

悲惨な出来事が起こったときACIMを信じるのは、「被害者」になってしまった方や大変な状況に陥っている方々に申し訳ない気がする。

でも『神の使者』の最終章にも「(アーテンの言葉)それでも、キリストとしての人々に一体感を感じることはできるし、不愉快に思うのと罪悪感を感じるのとは同じことなんだよ。軽い動揺は恐ろしい怒りや激しい悲嘆と変わらない。」とある。

世の中全体のメカニズムがどうなっているのかはわからない。けれど、個々がいろんな角度からプリズムに光を当てるようにこの世の幻想を見ているのだとすれば、私が赦せば、たしかに私の夢は変わるはず。。

もちろん、ハシゴの下段にいる私にとってゲンジツは堅固だ。三密も避ける、手洗い、マスクもする。けど、夢だと知っていて信じているなら、いま、できる範囲で赦すこと。そう思った。

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