2020-04-04
赦しは歪曲をぬぐい去り、真理の祭壇を開く
「赦しは、知覚に終わりをもたらすために定められた手段である。知覚がまずは変化し、次に知覚自体には永遠に到達不可能な高みにあるものへと完全に道を譲った後に、智識が回復される。」(W-pⅡ.336:1.1-2)
「赦しはさまざまな歪曲をぬぐい去り、隠れていた真理の祭壇を開く。赦しの百合の花が心の中を光で照らす。そして、戻ってきて内側を見るようにと心に呼びかけ、これまでむなしく外に探求してきたものをここに見出すようにと促す。」(W-pⅡ.336:1.4-5)
「唯一ここにおいてのみ、心の平安が回復される。ここが神ご自身の住む場所だからである。」(W-pⅡ.336:1.6)
ワプニック先生解説本にユング登場-ACIMとユングの違い
一昨日のブログ(ワークブックレッスン334)で、ACIMとユングの「共通点」について触れた。共通点そのものと言えるかどうかわからないけれど、「どちらもすべての人に共通する普遍的な無意識がある」みたいなところ。(ACIMは心はひとつで、その心が意識できていない部分があると言っているのかな?)
そうやってユングのことをブログに書いた矢先の一昨日の夜、ワプニック博士のテキスト解説本『Journey through the Text of ACIM』を読んでいたら、ユングが出てきてびっくりした。
ワプニック先生はフロイトのことは著書に出しても、ユングはスルーしているのかと思っていたけど。
お~!ユング ♪
そこには「ACIMとユングの違い」が書かれていた。
その前あたりから引用すると、「神の自己は自我の自己と対立しているのではなく、神の自己と自我の自己は互いに排他的状態にあり、その意味で両者は反対と言えます。しかし、これは反対にあるものを和解させるコースではありません。」と(4章2節p102、訳は稚拙ですが)。
その後に続くところにユング登場。
「ACIMとユングの分析の最も大きな違いは、ユングは全体性(wholeness)は対極にあるものを調整することからもたらされると教えていますが、そこでは対極のものが共にリアルであって統合される必要があると見なされています。
コース(ACIM)では、霊と自我、光と闇、愛と恐れを調和させることはできないと教えています。一方が存在するもとでは、もう一方は消滅せざるをえないからです。あらゆるものと無は決して調和するものではありませんし、互いにコミュニケーションすることなどありえません。」というところ。
ユングの心のイメージ
な~るほど。もやもやしている理解がすっきりする。
ユングによる心の体系では、心には「意識」の部分と「無意識」の部分があって、無意識はひとり一人の「個人的無意識」領域と人類に共通の「集合的無意識」領域に分かれる。
「自我」は意識の中心にある意識主体。無意識の奥には「自己」があってこれは神性そのものと言ってもいい。
無意識からのメッセージを夢などを通して意識のお皿に乗せて、その主体である自我が統合してよりよい自分を生きよう、というもの(私の理解、理解不十分や誤解があったらすみません、ユングの「自我」は意識主体でありACIMでいう「間違った心の部分」とは異なる)。
ユングの考えでは、あくまで「自己(神性)」も「自我(意識主体)」もリアルだけど、ACIMでは、「私」と今思っている「意識」すらも幻想だと言っているのだった。
でも、ユングの生まれ年は、1875年。
ACIMの発刊は1976年。
ACIMの方が100年も新しい(若い)。
ACIMの何十年も前の研究にしてはユングはかなり攻めたと言えるんじゃないかな?(あ、時間もないんだった)
…だから何?って話なんだけど。
ワプニック先生の「シンフォニー」に「ユング」が出てきて、なんか嬉しちょびっと嬉しかったのだ。たんに。
ワプニック先生、他でもユングについて触れていらっしゃるのかもしれないけれど、この本で私が見たのは初めて。フロイト先生しか眼中にないと思っていたから一昨日読んでいて「Jung」って単語が出てきて、辞書で調べたら、やっぱりあの「ユング~♪」とうれしくなったのだった。
ユング、ACIMどちらにしても、心の根っこはひとつ。つながっている。分離は夢だ。
「罪悪感」と「恐れ」を赦せば、そう、今日のレッスン336、「赦しは、心がつながっていることをわからせてくれる。」なのだ。なんか整っちゃったっぽい。