ACIMワークブック334-今日、私は赦しが与える贈り物を自分のものと宣言する。

2020-04-01

兄弟に無罪性を見る、そのようにして自分に無罪性を見る

私は、父が与えてくれる贈り物を見出すために、これ以上待つつもりはない。幻想はすべて空虚である。」(W-pⅡ.334:1.1-2)

そのような貧しい贈り物を今日もまた自分に受け入れるのは、やめよう。」(W-pⅡ.334:1.3)

今日、私は兄弟を罪なき者と見たいと思います。そのようにして、私は自分の無罪性を見るのですから、これが私のためのあなたの意志です。」(W-pⅡ.334:2.3-4)

“完全没頭型映画”に投影されているもの

世界は自分の心が投影して映し出していて、私がそれを“完全没頭型映画”のなかで体験しているとしたら、

そして、ワプニック先生がおっしゃるように、心のなかの決断の主体が、自我の見方か聖霊の見方か、どちらかを選択しているのだとしたら、

私はさしずめ、自我の見方に傾き、その“おすすめ映画”に没頭しているようなものだろうか。

ワプニック先生は、解説本『Journey through the Text of ACIM』で、「Again」「Once  again」と繰り返し重要箇所を強調しておられる。平時は「なるほどね~」と少々「くどい」くらいに思っているけれど、有事(平時を脅かすような何かが起こったとき)には、それでも何が何だかわからなくなってしまう。

だから、繰り返しは必要なんだな、と改めて思う。

月1で通っているカルチャーのユング講座では、人類には「集合無意識(あるいは普遍的無意識)」があると教えてもらった。ユングはフロイトより19歳年下で、フロイトが発見した「無意識」をベースにさらに独自に理論展開し、個人的無意識の下にさらに集合的な無意識があるとしたのだ。

私は初め集合無意識とは面白いな~と思っていた。無意識だから自分では気づけないけれど、でも心のどこかに個人を超えて人種や民族も超えてみんな共通して感じているところがあるんだなんて。

そしてユングは、そこに「元型」なるものがあって、みんなが共通にそもそも持っていて、人種を超えて神話や夢、伝説などにシンボリックに出てくるものがあるとした。代表的な元型には、グレートマザー、老賢人、自己、アニマ(男性の中の女性性)、アニムス(女性の中の男性性)なんてのがあった。

ACIMを知ってから、神の子の心は実際にはひとつなのだから、ユングの集合無意識の理論とも符合するなぁと思った。

ACIM的見方をすれば、集合無意識の奥底に、神からの分離という錯覚から生まれた、罪、罪悪感、恐怖(ワプニック先生がおっしゃる神聖ならざる三位一体(unholy trinity of sin, guilt, and fear))があるということなんだろう。

恐ろしすぎて認めたくないがために、罪、罪悪感、恐怖を心の奥底に沈め「なかったことに」する。

そしたら、例の「投影」が生まれ、外の“完全没頭型映画”に見る(体験する)ことになる。

今、分離の夢はリアリティをさらに増している。「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」なる新語も生まれた。

否認し外に見ることを選んだものは、パワーを増し、

罪は…(私ではなく)あいつが悪いんだ、

罪悪感は…だから悪いあいつは罰せられるべきだ、

恐怖は…怒れ、身内以外敵だ、やられる前にやってしまえ、

というように強調されてしまう。アメリカでは治安悪化を懸念し銃の購入者が急増しているという。

特にそれが「正義」と結びついたように錯覚しているときは極端になるよな~

無意識は自分ではコントロールはできないけど、自分の心の状態は気分でわかる。

ワプニック先生は繰り返し、最初に間違った心のポイントに戻って選び直せばいいとおっしゃっていた。

導き手として自我ではなく、聖霊を選ぶことだと。

仏教の家に育った私には「聖霊」という響きもなんだか急に遠く感じるけれど、心の奥にある「本来の自分」に意識を向ければいいんだよね?

自分の不安感を「ネガティブ球」として誰かに投げつけたくなるけれど、それをしちゃあいけない。

もし投げられたら、緩衝材みたくふんわり受け止めること。力任せに投げ返しちゃあいけない。

そういえば、犬や猫、どうぶつは緩衝材みたくニンゲンを癒してくれているなあ。

…なんかとりとめなく書いてしまった。書けるってありがたい。

今日こそ赦しの日だ。兄弟の中に無罪性を見て、そこから自分の無罪性を見る。

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