ACIMワークブック第Ⅱ部‐12.自我とは何か

2020-03-23

自我とは何か

自我(Ego)」とは、「神の意志を敵と見る『意志』」(W-pⅡ.12-1:2)である。

それは「分離した有限な自己のしるし」(W-pⅡ.12-1:1)であり、「偶像崇拝そのものである」(W-pⅡ.12-1:1)。

つきつめれば、自我は「意志」なのか。。。

偶像崇拝って。。。

偶像とは、本来は人形のことであるが,中でも崇拝の対象となる像をいう。この意味では神像や仏像と同じであるが,とくに〈偶像〉という場合には,真のものではない別の姿ないし中間に介在するものという意味合いを含んでいる。」(by コトバンク)

つまり自我とは、分離した自己のしるしを崇める意志なのかな?

今ここで私が「自分」と思っているものも、とどのつまり「幻想」だし「偶像崇拝」なんだろう。

本当の私は「神の子」で、しかしそれをすっかり忘れていて。。。そして、「考えている」と思っている私は「幻想」で。。本当のことを思い出そうとしていて。。でもその自分はやっぱり「幻想」で。

いったい、今「自我とは何か」を知ろうとしている私はだれなんだ?

う~、幻想がない頭で考えてる(~_~;)

自我の考え方と性質

狂気の中で、自我は自分が神そのものを打ち負かした勝者であると考える。」(W-pⅡ.12-2:3)

そして恐怖の自治の中で、自我は神の意志が破壊されたと『見て』いる。」(W-pⅡ.12-2:4)

恐れるあまり、自我は万有から離れ、無限から分離し、遍在を超えたところに立っている。」(W-pⅡ.12-2:2)

やっぱりわからない。

自我ってー。

そもそも分離が「勘違い」なのだから、自我って「思い込みが激しく、おっちょこちょい」なんでは?

そして注目してほしい「かまってちゃん」なんじゃぁ?

愛から分離してしまったから、「愛なんているもんかい」と言いながら、実はキョーレツに愛されたがっているんじゃ?

目くらましして直視されることを避けているらしいけど、本当のホントのほんとは見てほしくて。そして消滅したいんじゃないかな、いいかげん?

こんなことを書いてしまったら、自我に目を付けられてしまうだろうか。。。

それとも、こんなことを書いているのは自我のトラップで、それとは知らず書かされているのか (._.?) 

真のアイデンティティに目覚める

神の子に自我はない。」(W-pⅡ.12-3:1)

永遠の喜びの中に生きる神の子が、悲しみや苦しみについての何を知ることができるだろう。」(W-pⅡ.12-3:3)

本当の自分は自我とは無縁らしい。

実相を知るということは自我を見ないということである。」(W-pⅡ.12-4:1)

自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。」(W-pⅡ.12-4:2)

自我の法則が支配するこの世で肉体、私という幻想を持ちながら、自我にまつわる一切を見ないというのは、なかなか難しい。せっかくここにいるのだから、自我の“魅惑的な”アトラクションに参加したくなる。

自分という幻想を通してこの世を見ている私が、参加しながらやりすごす、その感覚がまだわからない。

これも屁理屈かな。

めざすその先

しかし、一輪の癒しの百合の花が、闇を光に変え、幻想への祭壇を生命いのちそのものの神殿に変えるだろう。

そして神がわが子として創造した神聖な心たちに、平安が取り戻されるだろう。

それらは神の住居、神の喜び、神の愛であり、完全に神のもので完全に神とひとつの心である。」(W-pⅡ.12-5)

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