『Journey through the Text of ACIM』(25)-3章6節 知覚 対 智識(前半)

2020-03-14

知覚 対 智識

ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of ACIM』のざっくりまとめ。

3章の6項目目「知覚 対 智識(Knowledge versus Perception)」の節。

3章のもうひとつの大きなテーマだ。

主な内容は、智識と知覚の違いと、知覚を生じさせた誤りがいかにして訂正されるかである。

智識と知覚の対比

まず智識と知覚の違い。ここでは、智識と知覚と対比させながらそれぞれの性質が説明されている。

そもそも天国は完全なる一体性で、それは不変だ。しかし、そこから分離してしまったという勘違いによって、あたかもこの世が「あるかのように」感じられている。

これが「知覚」であり、知覚という言葉自体が二元性を含意している。しかしこれは、神と神の子が「一なる者としてつながっている一体性(T-25.Ⅰ.7:1)」には何ら影響せず、その抽象性という質も変わらない。

自我の思考システムは、抽象的な神の愛から分離したという最初の具体性(specificity)に執着する。これが何かが足りないという信念につながり、自分には何か必要という自己認識が生じ、さらにこの世を作り出す必要性をもたらしたという。

智識対知覚の対比図私たちはこの世で問題に直面するとしばしばイエスに「具体的な」助けを求めるが、これは「何かが欠けている」という信念を強めてしまう。そうではなく、必要なのは、「すでに私たちがすべてを持っている」と思い出すことだ、とワプニック先生は強調なさっている。

テキストには「しかし、唯一の有意義な祈りは赦しを求める祈りである。なぜなら赦された者は一切を有しているからである。(中略)赦しを求める祈りとは、あなたがすでにもっているものを認識できるようになりたいという要請に他ならない。」(T-3.Ⅴ.6:3-5)とある。

JTTAに記述されていた智識と知覚の性質は図のとおり。

智識への架け橋「真の知覚」

コースの教えおよび実践で重要なこととして、この知覚から智識への道のりには架け橋となる過程が必要であるという。それが「真の知覚」と言われるもので、赦し、奇跡と同義語だという。

これを身に付ける最初のステップは幻想を疑ってみること。

幻想を疑問視することこそが、それらを取り消すための最初のステップである。奇跡、すなわち正しい答えが、それらを訂正する。」(T-3.Ⅲ.2:6-7)

そしてどう知覚するかが何を行うかを決めるが、これは時間枠のなかで起こる。

「真の知覚」は真理そのものではないが、一見断片化している一なる神の子に分離を見ないというあり方は真理の反映と言える。

ただ「イエスは真の知覚と智識とを混同しないよう注意を促しています」とある。

真の心眼とは、霊的視覚による自然な知覚であるが、それは依然として訂正であって、事実ではない。」(T-3.Ⅲ.4:1)

真理を知覚することは、真理を知ることと同じではない。」(T-3.Ⅲ.5:13)

このあたり、抽象的で私には難しい。

他者(同胞)をありのままに見ること

過程で大事なのは、「私たちがいると信じている知覚の世界から始めなければなりません。」(ワプニック先生)という点。

すなわち、今いる所から、視点を分離の知覚から共有する利益へ、また人間関係を自我の信念を表すものから天国の一体性を反映する手段へと、シフトさせていくことだという。

シンプルに表現するならば、「他人を攻撃せず、赦しの心眼を通して見ること」というコースの中核に行きつく。

この世では真の一体性は知りえないが、それを映したものは認知できる。この世は投影でありイエスはその投影を見る手助けをしてくれる。

これによって、罪だと思っていたものは誤りだったと気づく。

あなたが真に知覚するなら、自分自身と他の人々の中にある誤った知覚を同時に取り消すことになる。あなたが彼らをありのままに見ているがゆえに、あなたは彼らについての真理の受容を彼らに差し出しており、それによって彼らもそれを自分自身に受け入れられるようになる。これが、奇跡が誘発する癒しである。」(T-3.Ⅱ.6:5-7)

真の知覚とは、他者をありのままに見ること。すなわち他者を神の子であり聖霊として見ること。これこそが赦しの本質だ。

投影し分離していると見ていた同胞の中に全一性を見ることができるにしたがい、神の子は赦しという目的においてひとつであり、赦しのレベルでは互いに何ら違いがないことを知るのだと、ワプニック先生は説明なさっている。

神の子の一部を完全に知ることは一なる子の全一性を知ること

智識は、知覚を支配している法則を超越している。なぜなら、部分的な智識というものは不可能だからである。」(T-3.Ⅴ.8:6)

これは「一人の人がすべての人である」というテーマで「どんな一部にも全体が見られるというホログラフィックの原理を表す例です」といった説明があり「神の子の一部を完全に知ることは、一なる子の全一性を知ることです」と続く。

さらにテキストからの引用が続く。

赦しとは、分離しているという知覚を癒すことである。心が自ら分離したものと見ることを選んだので、兄弟についての正しい知覚が必要となっている。」(T-3.Ⅴ.9:1-2)

最後のほうに葛藤についての記述がある。

霊にはレベルというものがなく、すべての葛藤はレベルという概念から生じる。(中略)分離によってもたらされた複数のレベルは、相互に葛藤せざるを得ない。」(T-3.Ⅳ.1:6,8)

自我は、分離によって生じ複数間レベルにまたがるもので、葛藤の上に築かれたものだと言える。

したがって、自我から生じた知覚もまた葛藤の上に築かれ、外界として見る世界は葛藤する心の映しそのものなのだという。

知覚の世界は具体的な事象の世界で、これは私たちを次のテーマ「裁き(judgment)」の世界へと誘う。

むずかしい…

抽象的な説明が多く難しかった(難しいのは全部だけど)。

重要なところをまとめたいけれど、どこが特に重要なのか。。すべて大事なような気がしてきて、、、まとめられない。

理解力(英語&言っている内容の)が欲しい。翻訳できたものを読みたい。

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