ACIMワークブック318-私の中で、救済の手段と到達地点はひとつのものである。

2020-01-26

神が私の中に置いた無罪性を見出す

私自身が、神の子が救済されるための手段である。なぜなら、救済の目的は神が私の中に置いた無罪性を見出すことだからである。私自身が、自分の探し求めている対象そのものとして、創造されている。私自身が、世界が探し求めているゴールである。」(W-pⅡ.318:1.4-6)

私は神の子であり、神の一なる永遠の愛である。私は救済の手段であると同時に到達地点でもある。」(W-pⅡ.318:1.7-8)

父よ、私が自分に贖罪を受け入れるように、あなたが私に与えてくださる役割を、今日、私に担わせてください。」(W-pⅡ.318:2.1)

「私自身が、神の子救済の手段であり、ゴールである」というのは、そのとおりなんだろうけど、おもしろい。

人生と思えるものは、己の内面を旅する旅。

旅の同伴者はもちろん聖霊、なんだ。

それをこの世で投影して映し出して見ている。

ACIMの学習者はこれを意識してやっているのだけど、学習者でない他の方もみんなどこかしら神の子の記憶があってそこを求めて、この世とこの人生を生きているのかもしれない。

私は『神の使者』に出会ってこの世界のしくみを教えてもらわなくては、絶対に非二元性や赦しなんて考えもしなかったと思っているが、私が知覚できないだけで人にはそれぞれ、自分が手段でありゴールでもある神への道があるのかもしれない。

音楽の世界…これも神性の探求なのかな

色彩のワークショップを終えた後、ともに色えんぴつ画講座の生徒でもある友人と、色えんぴつ画講座の林亮太先生のクラッシックギターの演奏を聴きに行ってきた。

演奏会というかより、ごく限られた公開リハーサル演奏会というのかな?

林先生、これまでもいろんなところで演奏なさっていたが私はタイミングが合わず、初めて聴いた。すごい、うまい…。アグスティン バリオスという作曲家の「大聖堂」という曲、指使いも難しそうで、とくに印象に残った。

いったい、絵と、音楽の両方を同時にプロ級でやる人の頭の中ってどうなっているのか。

忙しいだろうに、どうやって練習時間を捻出しているのか。

最も心に響いたのは、林先生のギターの先生である榎本裕之さんとピアノの村上江里佳さんの「アルハンブラの思い出」という曲だった。これまで聴いたことがある耳なじみのよさも加わって、うっとりして聴いた。ボキャブラリーが貧弱でどう言っていいのかわからないけど、とってもとっても美しかった。

聴きに来ていた方は、私以外は、ピアノ、あるいはギターなど何らかの楽器演奏者、あるいは演奏なさっていた方だとか。みんな休憩時間には熱心に音楽談義をしていた。

林先生のお母さまもお見えだった。聴くところによると、ヴァイオリンの先生だったとか。お父さまはビオラ奏者だったとか。

音楽というのも(今さらアホみたいな感想だけど)奥深いものだな。

それと意識していないかもしれないけれど、楽器をやっている方もACIMレッスンみたく「神が私の中に置いた無罪性を見出す」ためにやっているのかなと感じた。

その空間にいるとき、とっても心が洗われた気がした。きっとそうなんだと思う。

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