『Journey through the Text of ACIM』(19)-3章 心の力-決断の主体

2020-01-20

シェアの会と1ヶ月ごとの変化

土曜日、ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のシェアの会があった。

興味深く思うのは、あたりまえといえばあたりまえなのだけど、それぞれ、ものの見方や考え方、そして人生が変化していくことだ。

概して自分のことは客観的に見ることができないが、他の方のことは比較的見えやすい。しかも月1度というのは変化が捉えやすい。

その時々感じ方、心のなかの中心テーマ、選択は変化していくし、環境やゲンジツも変わる。それは心で事前に選んだことを映し出しているんだろうな~と思う。

そして、メンバー同士どこかでつながっているから、だれかの変化は、他のメンバーや自分にとっても変化なのだ。

それはこれからゲンジツ化することの伏線でもある。

そういうふうに、まだ目に見えないけれどさまざまなことが起こっていること、そこからどういう展開になっていくのかということ、それが興味深い。怖くもありワクワクもする。

何が起こっても心の投影なのだから、始まりは自分の心なのだけど。

 

そして今回は、シェアの会までにまとめられなかった3章の2節め「心の力-決断の主体」についてだ。

自分が理解しやすいように端折ったざっくりまとめだ(力不足から勘違いしている箇所がありましたらすみません。「エゴ」のほうが使いやすく「自我」という表現と「エゴ」という表現が混在しています)。

「心の力ー決断の主体」…決断の主体とは

まず節の初めワプニック先生から「決断の主体」(the decision maker)について説明がある。「(第2段階の分裂後)分裂した心の2つの部分に加えて、第3の要素があります。それが、自我の思考システムと聖霊のそれとの間で選択をする決断の主体としての神の子です。」

そしてテキスト3章2節の以下の文章が引用されている。

歪曲を訂正する方法は、歪曲に対するあなたの信を撤回し、真実なるもののみに信を投ずることである。(T-3.Ⅱ.6:1)」

自我(エゴ)を選べば、エゴの思考システムがもたらす世界がゲンジツになる。なぜならそこに信(faith)を置いたから。

ここでワプニック先生は「信」という語について注釈なさっている。それは「信仰」という宗教的な意味合いは含まず、「自分の信をどこに置くか(エゴか、聖霊か)」という意味で用いられていると。

心の力とは

「心の力とは単に2つの思考システムのうち一方を自分のものとして選びとる力だと言えます。選択をしたなら、そのシステムは私たちにとって現実のものとなります。」とワプニック先生。

選びとったということは、そこに「信」を置いたということ。くりかえしになるが「信」を置いたものが、決断の主体にとってのゲンジツとなる。

そして私たちは今エゴの思考システムに信を置き、これをゲンジツ化している。これは「別の方法があるはずだ」と気づくまで変わらない。

「別の方法があるはずだ」と気づけば、私たちには心に戻り選び直すという選択肢が見えてくる。

2つの思考システムとその出発点、そして終点

すべての思考体系には出発点がなければならない。それは、作り出すか、創造するかのどちらかで始まる。両者の相違についてはすでに論じた通りである。(T-3.Ⅶ.1:1-2)」

2章でも述べられていたとおり、エゴは「作り出す(make)」のに対し、聖霊は「創造する(create)」。聖霊の創造は、真の創造とは異なるが、夢の中での正しい心の表現となる。

エゴの思考システムであっても、聖霊のそれであっても、出発点は私たちの心の決断の主体となる部分だ。そしてそれは終点でもある。

テキストの最終部分にも「旅は今、それが始まったまさにその場所で終わりを告げます。(T-31.Ⅷ.1:12-3)」と書かれているように。

くりかえしになるが、狂った旅は、決断の主体である神の子がエゴを選んだことで始まった。そして完全に正しく選び直せたときには終わる。

どちらの思考システムも土台としての力をもつ

両者は、いずれも土台としての力があるという点で類似している。両者の相違は、何がその土台の上に成立するかの点である。どちらも、人が生きる上で拠り所とする信念体系の隅石となるものである。(T-3.Ⅶ.1:3-5)」

エゴ・システムであっても聖霊・システムであっても、ベースとしての力をもち、そこから観念が発生、発展する。

エゴからは、罪、罪悪感、死、特別な関係性が生じ、聖霊の贖罪の原理は奇跡、平和、赦し、聖なる関係の元となる。

両方ともそのシステム内では、論理性、一貫性をもつ。

虚に基づいた思考でも、そこには力がある

嘘に基づいた思考体系が虚弱であると信じることは間違いである。神の子供が作り出したもので、力が宿っていないものはない。これをよく理解することがきわめて重要である。(T-3.Ⅶ.1:6-8一部)」

エゴの思考システムは、虚構に基づくものであるが、だからといってそこに力がないわけではない。心が信じることで力を与える。

すなわち心は力をもつ。その力を認めることが重要である。

心の力は権威の問題として現れる

あなたは、自分の心を軽んじることによって、権威の問題を解決することはできない。(T-3.Ⅶ.2:1)」

心に力がないふりとして権威の問題を解決することはできない。

権威の問題とは、ざっくり言うと「誰が支配権を持っているか」と言っていいと思う。

誰かが私たちに権力を振るうとしたら、私たちがその誰かに力を与えた(委ねた)ということだ。

しかも、そのことを忘れている。

エゴの世界では力は支配である。それは「私たちが神を引きちぎって離れた」→「神に打ち勝った」という思いが根底にある。

私たちが何らかの権威・権力に牛耳られていると感じているなら、自分が「神に打ち勝った」というその破壊力を信じ→その上でその力を誰かに明け渡して→自分を無力なものとしてごまかし→その上でそれを再確認しているのだと、ワプニック先生は説明なさっている。

そして、他の誰かが外にいるように見えたとしてもそんなものはいない。それは、すなわちエゴなのだという。

悪魔は実在しないが、信じるところにはたしかに在る

『悪魔』は神の被造物を占有しようとして神を相手に格闘している勢力だと知覚されている。(中略)それでも、こうした悪魔が人間たちの反感を買うどころか彼らを惹きつけ、人間たちは何の値打ちもない贈り物と引き換えに自分たちの魂を悪魔に進んで『売りわたそう』としている。(T-3.Ⅶ.2:5-7)」

心は分離の信念を、非常に現実味がある恐ろしいものにすることができる。そしてこの信念こそが『悪魔』である。(T-3.Ⅶ.1:1-2)」

悪魔とはエゴを選んだ私たちの心が作り出し、「私たちを占有しようとしている神に対峙する勢力」だ。もちろんこれも幻想なので、ワプニック先生は「私たちこそが悪魔なのです」とおっしゃっている。

エゴを選んでそれをゲンジツ化させたのは私たち。だけど、悪魔もエゴも幻想に変わりはない。心の力がそこに信を置くから、命が吹き込まれるだけだ。

 

心がもつ力を認め、権威の問題も悪魔のように見える何かも自分の心が作り出したと認め、立ち返って聖霊の思考システムを選び直すこと。そうすればエゴは消失する。これが、この節の最も重要なポイントとなると思う。

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