ACIMワークブック314-私は過去とは違った未来を求める。

2020-01-02

2020年リフレッシュスタートのレッスン

世界の新しい知覚の中から、過去とはまったく異なる未来がやってくる。」(W-pⅡ.314:1.1)

過去の誤りは未来に影を落とさず、恐れは偶像も形象も失って形なきものとなり、いかなる結果ももたらさない。」(W-pⅡ.314:1.3)

今では、死が未来を奪おうとすることはない。今や未来のもつゴールは生命いのちとなり、そのために必要な手段はすべて快く用意されるからである。」(W-pⅡ.314:1.4)

父よ、私たちは過去において間違っていましたが、今、自由になるために現在を使うことを選びます。今、私たちは未来を御手にゆだね、過去の間違いを後にします。」(W-pⅡ.314:2.1-2)

お経を聴きつつご先祖を思う

実家にいると自分の来し方に罪悪感を感じてしまう私にぴったりのレッスンだ。

うちは浄土宗で、毎年1月2日にはご先祖にお供えをしてお寺から尼僧さんお経をあげに来てくださる(普通のお雑煮には焼いた鯛の身が入っているけど、お供え用は精進で鯛はなしでシイタケを入れる)。

今年も尼僧さんの美しい声で全身に快く響くお経を聴いた。

そこでもやはり私は、この家を継いで子孫にバトンタッチできなかった、と亡父やご先祖に申し訳なくなってしまう。

でもたとえもう一回若い頃に戻ってやり直せたとしても、親の期待には沿えず今と同じだったろうなぁ、と思う。所詮私は私で資質は変わらないのだから。

誰かが私を責めているわけじゃない、情や観念が絡んで自分自身が残念で切ないのだ。それは鈍い痛みで、今更変えられないことを心の奥でじくじく責めている。

そこには自分が「幸せにならない」ことで“罪滅ぼし”の対価を払うような、マゾヒスティックな快感が伴う。まさしくエゴの手中にいるなぁ。

このレッスンは、そこからリフレッシュスタートできると教えてくれる。

過去も未来もない。今の平安がすべてになるだけなんだと。

真の「滅罪」を実践したい

実家では母のおしゃべりをずーっと聞いているせいか、過去スイッチがOnになり、東京の自分スイッチがあやふやになってACIMを学んでいた自分がおぼろげになる。

けど、聖霊の見方を思い出したい。

そういえば、お経を聴きながら母が見ていたお経の冊子に母が残していたメモを思い出した。写真撮ってきた。

そこにはなぜか「滅罪」と書いてあったのだ。

この「滅罪」をACIMの贖罪と捉えよう。それは赦しの実践だ。

自分がわからなくなってしまう実家でACIMの教えをずっと覚えてられたら、けっこう学習が身についたということかな。

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