『Journey through the Text of ACIM』(15)-2章 赦し

2019-12-16

先週末のシェアの会、話すことで腑に落ちていく

土曜日、テキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のシェアの会があった。

結局、2章の「Forgiveness(赦し)」と「 The Last Judgment-The end of the Process(最後の審判-プロセスの終着地点)」はブログ上でのまとめは間に合わなかった。

なので私分としては「The Power of the Mind:Cause and Effect(心の力:原因と結果)」だけシェアした。

お仲間のひとりが、「『心の力』って、私たちが今(エゴの闇の世界という)テレビを見ているけど、その気になればリモコンでチャンネルは変えられる、ってことだよね~」と言ってくれた。なるほど。イメージがしやすい。

さしずめ私は、意識的にも無意識的にも“否認しがちなタイプ”だから、心のリモコンがあることに思いを向けないまんま、ヤバそうなシーンになるとテレビに布を掛けたり、目と耳を塞いだりして「あ~、何も起こってません、Everything is OK」と言っているようなものか?と思った。

しかし去年までACIMの抽象概念をひとりでぐるぐるさせていた頃からみたら、こうしてたとえ話をしながらACIMについて語り合えてるって夢みたいだ。これまでペンディングだったことが話し合うことで腑に落ちる。

ゲイリーさんのワークショップ行ってほんとによかった、とつくづく。

JTTAに四苦八苦しだしてから、心の中のゲイリーさんは少し遠くなってしまったけど。

次節のテーマは「赦し」

前節「心の力」の終わりにワプニック先生は重要なことを言っておられた。

それは「赦しとは2つの肉体の間で生じるものではない」と。「赦しの対象だと思える他者の肉体は私たちの罪悪感を特別な関係に投影した結果に過ぎないから」と。これって大事じゃないかな、「赦し」の節のなかには入ってなかったけど。

さて、「赦し」の本節は次のようなイエスの言葉から始まる。

奇跡を行う者にとっての唯一の責任は、自分自身のために贖罪を受け入れることだけである。(Ⅴ.5:1)」

この文章の補足としてワプニック先生は「私たちの責任は世界を救うことでも、かたちのレベルで先生となってコースを教えることでもありません」。ただ「自分自身に贖罪を受け入れることです」と説明されている。

別の言い方に変えると「『分離は決して起こらなかった』という簡潔なことばで要約されます」とも。

贖罪とは、この世の幻想性を受け入れて、罪も罪悪感も幻想と受け入れて赦すことでそれを消滅させること。それが本当の“罪滅ぼし”だ。

そして、ポイントは「自分自身に」なのだ。

「心の質はひとつなので、癒された心はすべての心となり、いまだ幻想の夢を見ている者にも及ぶということです。」だから、私たちは「自分の心」に集中すればよいのだ。

そのときあなたが彼らに与えることになるメッセージは、彼らの心も同様に建設的であり、彼らの誤創造が彼らを傷つけることはないという真理である。あなたはこれを肯定することにより、学習手段を過大評価することから心を解き放ち、学ぶ主体としてのその真の地位に、心を復帰させる。(Ⅴ.5:5-6)」

自分自身に贖罪を受け入れるとは、平たく言うと「愛と平和をもって他者と過ごすこと」だという。そして、「言葉や行いが重要なのではなく、内在する愛の臨在のメッセージ(the underlying message of a loving Presence)こそが重要」だと言っておられる。

これは、他者は私たちを傷つけえないという認識に基づき、私たちが贖罪を選ぶことで他者にも贖罪を選びうるというメッセージを差し出すことでもある。

そして「繰り返します。教えるのは私たちの行動ではなく、私たちの心が選んだ平和です。」と念押し。

奇跡志向の赦しは訂正

赦しは、訂正を伴わない限り、空虚なしぐさにすぎない。それがなければ、本質的に、それは癒しをもたらすどころか、裁くものとなる。(Ⅴ.15:3-4)」

この辺りには、奇跡志向の赦しは訂正であり裁きとは異なること。間違った心での赦しとは、肉体とかたちのレベルの、破壊するための赦しであり、エゴの思考システムを強化してしまうとある。参照箇所としてテキスト30.VI.1-4の他、ワークブックレッスン126.1-7やレッスン134.1-51などが挙げられていた。

赦しにどこかジャッジのニュアンスが入っているとしたら、それは真の赦しではないんだろう。実際には、真の訂正というのはなかなか難しいものだな~と思う。認知自体が歪んでいるから(これは私の感想)。

贖罪と時間

贖罪は、『時間と空間』の信念の中に組み込まれたが、それは時空の信念そのものの必要性に限界を設けて、最後には学びを完了させるためであった。贖罪は最後のレッスンである。学びそのものは、それが起こる場所である教室と同じように、一時的なものである。(Ⅱ.5:1-3)」

この辺りは、贖罪と時間について書かれている。贖罪の完了までの学びのプロセスは、幻想である時間の中にある。私がここに在ると思っている間はプロセスも在る。

「贖罪は最後のレッスン」であり、学びおよびその能力はその必要がある間のみ意義がある。

この意味において、贖罪は時間を省くが、贖罪が仕えている奇跡と同様、時間そのものを廃することはない。贖罪の必要がある限り、時間も必要である。(Ⅱ.:6.6-7)」

贖罪が完了するまでは、そのさまざまな段階は時間の中で進行するが、完全な贖罪は時間の最終地点に立っている。(Ⅱ.:6.9)」

贖罪の究極の目的は時間を廃すること。贖罪は赦しを学ぶのに必要だっただろう時間を崩壊させるとともに、過去の誤りを取り消すことで時間を省く。

そうやって「旅の終わりに近づいて初めて、私たちは夢の中で真の自己を構成しているものが非空間的、非時間的存在である、意思決定する心だと気づきます。」と述べられ、私たちは「師をエゴから聖霊に変えることで時空を“調整”する存在」だと説明なさっている。

贖罪は内なる祭壇の中央にあるべきもの

赦しは、この世と肉体を受け流し、心に焦点を当てる。心は「神殿の祭壇」という信仰のシンボルであり、「真の自己=決断の主体(the decision maker)」である。それは過去に誤った選択をしてしまったが、今選び直すことができるのだ。

完璧な効力を発揮するために、贖罪は内なる祭壇の中央にあるべきものであり、そこで分離を取り消し、心の全一性を回復させる。(Ⅲ.2:1)」

分離も恐れもどちらも誤創造であり、これらが撤回されて神殿が復元され。贖罪を受けるための祭壇が開かれなければならない。(Ⅲ.2:3)」

私たちが、自分の心の選択力に気づけるようになると、世界は防衛が必要な敵対的な場所ではなく心の誤った選択を見てそれを訂正するための教室となる。

霊的心眼がもつ強さゆえに、心は霊に仕えるようになる。これが心の力を再確立する。そして心は遅延は不必要な苦痛を増すだけだと理解し、次第に遅延を許容できなくなる。その結果、以前ならごく些細な不快感の侵入と見なしたはずの事柄に対しても、心はますます敏感になっていく。(Ⅲ.:4.5-7)」

上記についてワプニック先生は「テーブルクロスを想像してください」と説明されている。テーブルクロスが汚れているときには、もう1、2か所汚れても気にならないが、きれいなときにはわずかなシミも気になる。つまり私たちは学習が進むにつれて、ちょっとしたころでも不穏になりがちだという。

そして赦しについての「よいニュースは、最終的な結果には疑いはないことです。すなわち幻想が真理を打ち負かすことはありえません。神の子はひとり残らず家に帰ります。」と請け負ってくださっている。

 

もっとさくっとまとめたかったけど、ついつい、ここも、あそこも、とまたまた長くなってしまった(~_~;)

ともかく実践は、自分に贖罪を受け入れよ、とシンプルだ。それはラフにいうと、自分を責めるな、いじめるな、そして他の人に穏やかで優しくってこと。

要注意なのは、言葉と行動でじゃなくて、心で、ってところだ。自分はごまかせないから、ともかく自分の心を平和に保たなきゃ(それがむずかしい)。でも、不穏になるのもありだな~。途上だし。まあ、くりかえし、くりかえしすこしずつ。完璧主義はきんもつ。

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