ACIMワークブック301-そして神ご自身がすべての涙を拭い去ってくれる。

2019-11-15

裁くことをしない限り…幸せが見える

父よ、裁くことをしない限り、私が悲しみの涙を流すことはありえません。また、苦痛に悩むことも、世界の中で自分が見捨てられたり必要とされないと感じることもありません。これが私の家です。なぜなら、私が世界を裁かないので、世界はあなたが意志するとおりのものになるからです」(W-pⅡ.301:1.1-3)

神の世界は幸せな世界である。それを見るものたちにできることは、ただそこに自分の喜びを加え、自分の中で喜びを深める原因となるその世界を祝福することだけである。

私たちは理解していなかったので涙にくれた。しかし見ていた世界が虚偽だったと学んだので、私たちは今日、神の世界を見る」(W-pⅡ.301:2)

私の赦しのテーマの本丸に近づく!?

これは10月30日から11月1日あたりにやっていたワーク。

ノートを見返してみると、ちょうど病院(泌尿器科)にようやく予約を入れた日~診察に行った当日で、ワークのなかで不安や恐怖を感じそれを手放そうとしていた痕跡があった。

病院に行く不安感を掘り下げると、自分が肉体だという認識をベースに、そのコントロール権を他者にゆだねる不安があり、さらに「私は自分の考えや思いを人にわかってもらえるよう説明できない」という自信のなさ・対人恐怖と、「どうにかされちゃう」というや人間そのものに対する不信があることに気づいた。

ノートには「人間不信・対人恐怖」という言葉がくるっと囲ってあって、いやいやこれは…なかなか根深い、と思う。

私の赦しのテーマの本丸はこういうところにあるのだと思う。

要するに、自分が自分自身を恐れているうえ信頼していなくて、それを外界と同胞に投影しているということだ。

自分自身を恐れるとは…

自己分析すると、私は私の内に秘めた「攻撃性」を恐れており、それを出してしまうのも怖く(感情もろ出しの母を見てきて、感情的になること自体が恥ずかしいしみっともないと感じてしまう)かなり「抑圧」している。

自分の肉体の窮地には不安感が膨れ上がりその「抑圧のフタ」がパカパカして、抑えているはずの「攻撃性」が出ちゃうんじゃないか、それが「自分を恐れる」の正体のような気がした。

う~む。

いろいろ複雑で絡み合っているかも?

しかもこれは、私が「意識」で分析可能は部分…つまり上っ面。その奥の無意識にはどんなもっと恐ろしいものがあるのか…と思ってしまう。

ふと今『神の使者』の一節が浮かんだ。確認してみる。

「罪ゆえに内面を見ることへの恐怖にはもう一つの恐怖があり、それがエゴを震撼させる。もしあなたが内面を見て、そこに罪がなかったらどうなるのか?この『恐ろしい』疑問こそ、エゴが決して問いかけないものである。」(古い版の「5.エゴの計画」p226)

私が感じている攻撃性というものは、おそらく罪悪感と表裏一体なのだ。

そして、勇気をふり絞って覗くことができたら、そこには何もないというのか。。。

to be continued…

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