『Journey through the Text of ACIM』(10)-2章 一体性、小さな狂った考え

2019-11-06

Oneness(一体性)

今回は、以下のざっくりまとめを。

2-1 Oneness(一体性)

2-2 The”Tiny,Mad Idea”(小さな狂った考え)

ブログにまとめる段階になって初めて、あれ何書いてたっけ、と振り返ることになるから、ブログという書ける場があるのはありがたい。

 

Onenessでは冒頭、テキスト「神にはただひとりの子(Son)がいるだけだということに、特に留意すべきである。神の被造物たちの全員が神の子(Sons)であるというのなら、各々が一なる全体にとって、不可欠な一部のはずである。(以下略)」(T-2.VII.6:1-3)から続く文章が掲載されている。

ここでワプニック先生が注視されたのは、イエスが「Son」「Sons」と単数形、複数形を併用して使っているという点だ。神の子は単数がふさわしいのか。あるいは複数なのか。

もちろん天国では分離も分化もないので、「単数=ひとり」が正解だ。

ただ私たちは、この世でACIMを学んでいるので、イエスはこの世の私たちがわかりやすいようにと複数形も使っているのだとの説明がある。ちなみに「神の子」は人間だけにはかぎらない。すべての生命体、形あるものすべて。私たちが住んでいる(と思っている)地球だけ、また太陽系だけでなく銀河系も、さらには他の銀河も含めてバラバラになっているものみーんなだと丁寧に書かれている。

こう聞くと私たちの関心はつい壮大が宇宙に向かいがちだけれど、イエスがACIMテキストで理解してほしいと望んているのは、「神には、ただひとりの子があり、その子がすべてを有している。その子はすべてのものである神の一部だから。」ということ。この点をワプニック先生も重ねて強調なさっている。

つまり、これも繰り返し言われていることだが、「神の子は神が創造したままにずっとある。分離した結果の世界にいるかのように思っているが、本当のところは何も起こっていない」ということだ。

次にポイントとなるのが、creation(創造)、creativity(創造性)という語句の用い方について。

イエスはこの語句を、天国と神の質だけに用いており、厳密にはこの世の活動には用いていない。テキスト(T-2.I.2:7)には「…被造物には、神による子の創造と、心が癒されたときに子が創造する被造物との両方が含まれる」とあるが、これを字面とおりに捉えるのではないという。「完璧な一体性における創造というものはこの世にはない」と明言されている。

creation(創造)、creativity(創造性)について、この世の言葉で表現するのは難しい。イエスが私たちに伝えようとするとき、二元論的な言葉や概念を使わざるを得ない。この点に留意しながらテキストを読む必要があるということ。

あともう一つ小さなポイントかな、と思うところは、イエスが伝統的なキリスト教の考え方を再解釈している例だ。

それは「Free will」という語。

伝統的なキリスト教によれば、Free willとは「罪悪は自由な意思決定によって犯した原罪から生じている(アウグスティヌス)」を基に、「どうして原罪が生じたのか」を説明する語だという。

一方ACIMでは「神の子の意志は自由に創造できる」というように天国を表現するのに用いられている。

以上、Oneness(完璧な一体)のまとめ。ここからJTTAは「完璧な一体の只中で何かが起こったかのように見えた」「ほんの小さな狂った考え(The”Tiny,Mad Idea”)が生じた」とあり、次節へ続く。

The “Tiny,Mad Idea”(ほんの小さな狂った考え)

「小さな狂った考え」から分離した(と思い込んだ)神の子は、事実を捻じ曲げて見る。それが「投影」だ。

投影によって神の子は神に代わり神以上に「創造」ができるのだと信じ込む。

ここに「権威の問題」が潜む。この核心は「私の現実の作り手は誰か」というテーマに集約される。

もちろん自我(エゴ)は「自分だ」と答える。

私たちは、神から離れたとき創造者としての役割も一緒に神から奪い取ったと信じている。しかし一方で、心の奥底には真の創造主である神の存在があり、心の中は無自覚ながら常に葛藤状態にある。

この葛藤がこの世に投影されて様々な「権威の問題」として現れるのだという。このあたりは再び次章で見ることになる。

一方では、自我がはるか昔に私たちは分離した、という。他方では、夢を越えた現実ではまったく起こっていないという。

このパラドックスに落としどころはない。なぜなら、矛盾をすり合わせようとすれば、解消したり解決したりする「何かがある」と言っていることになるから。その両方をいっぺんに信じるということはできないのだ。

続く3章では、「間違った心」と「正しい心」という概念が登場する。前者は自我の思考システムを表し、後者は聖霊のそれをさす。

重要なのは、学んだことを踏まえて、では私たちはそのどちらとひとつになるかという選択だ。分離はリアルで「私たちは神と分離した存在」だと見るか、贖罪の原理に従って「何も起こっていない」と見るかー。

以上、2章のうち2節、Oneness(一体性)、The”Tiny,Mad Idea”(小さな狂った考え)のざっくりまとめ。

訳を止めたので原文のままの引用ができなくなってしまった。次節から長めになっているのでさらにもっとざっくりにしようと思う。

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